マガジンのカバー画像

生きる

90
ー破壊そして再生へー
運営しているクリエイター

#心理学

わたしたちは人生に意味を見いだすことを求めている

今日もV・Eフランクルについてかこうと思う。 以下に示すのは、フランクルの言う人間の根本意思の3つです。 フランクルは、快楽への意思を生理的欲求年、力への意思を社会的欲求、自分の提唱する欲求を実存的欲求とした。 誰もが皆、自分の人生に何らかの意味を求めている。しかし、その意味の充足がなされないとき、このフロイトとアドラーのそれぞれの欲求が生じてくるとそうフランクルは説明している。 まさに、その通りだなと彼の本を読んでいて深くうなずけた。 自分の周りもこのフランクルの言

力が抜けない私たちに送る宮崎駿の「君たちはどう生きるか」

先日、宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を見てきた。 皆、いろいろな意見があるので、わたしもこの映画の感想を書こうと思う。 わたしがこの映画を見て感じた事は、宮崎駿はもうみんなのために頑張るのをやめたんだなっということでした。 これまで、皆の腹を満たすための映画、つまりはただ消費されるための映画を作ってきた。宮崎駿自身は、その自分の作る映画の意図がしっかりと見る人の心に届いているとそう信じて製作を続けてきた。 でも、その皆の心の奥深くにある光に届くと信じて書いてきたもの

<終末の人間>とはわたしたちのことなのかもしれない

ニーチェのこの言葉を知っていますか? この言葉にはじめて触れた時、何とも言葉にしがたいものをニーチェにつきつけられたそんな気がした。 今の時代は、まさに虫けら同然の人間ばかりになってしまっているのかもしれない。ぬくぬくとした場所に逃げ込みというのは、自分を誰も否定しない、言ってみれば、自分ワールドの事。この自分ワールドの中で暮らしていれば、誰とも接触することはなく、ただ自分だけが幸せでいられる。 ニーチェは、この自分ワールドの中に自分に都合の良い人間を引き入れて、そのも

きちんとするってなんだ?

ニ、三日前から、千葉雅也さんの現代思想入門という本を読みだした。 この本の冒頭に「現代ではきちんとする方向へと、色々な改革が進んでいて、それにより、生活がより窮屈になっている」という文言がありました。 きちんとする、ちゃんとしなければらなない。逸脱を取り締まって、ルール通りにキレイに社会が動くようにしたい。 これはまさに千葉さんのおっしゃる通りで、わたしたちはいつからか、綺麗なものこそが一番素晴らしいものだという幻想にとらわれるようになってしまったと私自身も強く感じると

色をもっと効果的に使おう!

もっと生活に色々な色を取り込めばいいのに、意外に皆色々な色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまっている。皆が着ている洋服も、外に出れば、田舎なんて特に、黒やグレーばかり着ている人だらけだったりする。色は効果的に使えば、沢山いい事があるのだけれど、その色の効果を知らない人は、何故だか意外に生活そのものに色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまう。これってすごくもったいない。 人間というのは、自分の目にする色というものから多くの刺激を受けていたりする。色を

私たちは、不安があるから壊れる。恐怖があるから壊れる。

毎日毎日、沢山の恐怖が私たちの生活に迫ってくる。その恐怖が、分断を生み、この世界はバラバラになってきているんじゃないだろうか? 私たちの生活とは、常に恐怖と隣合わせ。この恐怖が、この世界を分断させてきた事は間違いない。 個人の心にある不安や、恐怖心。これが、この世界を今ものすごい勢いで引き裂いている。どの人の心にも、不安や、恐怖というものはある。これをそれぞれの人が、自分で克服する事が出来なければ、この世界は更に拍車をかけて引き裂かれて行くのだろう。 私たちは、怖いから

私たちは死ぬために生きている

人間ってのは、とても不思議なもので、死に向かって私たちは毎日を生きている。エントロピーが増大するにつれて、私たちの中に内在する光はその強度を弱めていく。 生きるっていうのは、この心の中に灯った光がある時だとすると、私たちは、毎日少しずつこの自分の中にある光を失っている訳だから、生きながらにして、私たちは死に向かっているという事になる。 私たち人間は、毎日少しずつ自分ってものを失っていく。柔軟だった自分もどんどんと硬化してその中にあるべきはずのエネルギーは、自分でも気づかぬ

ナルシシズムによる自己確立

私たちは、今自分の目の前にある世界が全てだと思って生きているところがある。木を見て森を見ない生き方だ。もっと言えば、私たちは木すら見ていないのかもしれない。私たちが見ているのは、木に茂っている多くの葉っぱの一枚。その一枚しかもしかしたら見ていないのかもしれない。 私たちが全てだと思ってみている世界は、木に茂った葉の一枚。そんな小さな世界を私たちは意外に全てだと思って生きていたりする。だから、苦しくなって、辛くなって、何処にも人生の逃げ道がない気がして辛くなる。 人間という

私たち人間は感情の奴隷

私たち人間は、自分の取る行動の本当の意味を知らない。ただ何となくそうしたいから、そうしているだけであり、何故、自分がこういった行動を取るのか?その本当の理由は何も知らない。 私たち人間というのは、自分の意思を持って自分のありとあらゆる行動を決めている様に思えるけれど、でも実際は、そこに自分の意思など殆ど反映されてはいない。私たちは、自分で自分の取る行動を意識的に決めているのではなく、自分の中にある感情というものによって、自分の取る行動を決められている。つまり、私たちの行動の

人生に屈するな、戦え。

往生際の悪さ。 私という人間は何処までも欲深い。自分というものを何処までも追求していきたい。今あるこの自分というものに、私はそう簡単に納得する事が出来ない。 周りを見ていると、皆いとも簡単に自分の人生に納得しているかのように見える。納得しているというか、もう自分の人生と闘う事を諦めてしまっているのか? 自分を生きると考えた時、そう簡単に自分の人生に納得する事が出来るだろうか?私は、自分のこの人生に負けたくはない。だから、一生この自分と闘い続けるつもりでいる。 これが自

いついかなる時でも自分を問う

私たち人間というのは、しっかりと色々な事を意識して生きていないと、この心というか、精神はすぐにバラバラに砕けていく。自分を一つの塊として維持していくには、その1つの塊である自分を常に意識し続ける事が必要になる。 何もせずにただこの流れる時間にその身を委ねて生きて行けば、自分というものは維持する事が難しい。エントロピーの法則ではないが、私たち人間というのは、常に自分に意識を向け続けなければ、この私というものは、簡単に複雑化し、乱雑になる。 自分の部屋も、常に自分で綺麗にしよ

人格変容を伴う癒しという強烈な体験

私たち人間は日々、癒されたいと思っている。自分の中にある苦しみや、悲しみを和らげたいと思っている。だから、色々な所へ出かけて行ったり、色々な人と出会ったりして、そこで私たちは自分の心を癒そうとしている。 私たち人間というのは、自分の中にある苦しみや、悲しみ、これを完全に断とうとはしない。ほんの少しでも、癒されれば、自分の中にあるものが緩和されればそれでいいくらいにしか思っていない。 だから、一時的な癒しを求めてあちこちをさまよう。そして、一時的な満足で自分が癒されたとそう

創造する力が生むフリーエネルギー

私はいつも何かをしていないといられない。じっとしていられない。 じっとしていると、自分が何かに食われてしまうようなそんな気がして、いつも何かをしていないといられない。 何かをすると言っても、掃除や洗濯、仕事や家事という事では無い。 私はいつも創造的な事をしていたい。何かを書いたり、作ったり、何処までも自分の思考を広げて行ったり。こう言う事をしていたい。 こうした事が出来ない日、私はその日一日生きた気がしない。 創造する時間というものが、一日の中にないといられない。私

VRという大きな魚の腹の中

なんとなく考えてみた。これからの事。これはあくまで私個人の考えだけど、これから、私たちの世界は皆、VRの世界に移行していくんじゃないかな? 私たちの生活圏が皆、VRの世界に移されて行く。VRの世界で自分のアバターを作って、そこに私たちは今あるこの私というものを移していく。 私たちの今住んでいるこの生活圏が皆、VRの世界に移行する。そんな風に最近考えたりする。っていうか実際にもう世界はそうなってきているよね。 自分のアバターを作って仮想世界の中に入る。最初は、その自分のア