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「ネガティブな発言をするのも、聴くのも嫌だ」というあなたへ。

こんにちは。つながり探究家の美月です。

先日、パートナーの実家の法要があり富山へ帰省してきました。法要は自宅に僧侶の方をお招きして執り行われたのですが、故人と親しい付き合いをしていたようで、「●●おばあちゃんはね」「●●校長先生が…」とパーソナルな思い出、物語を語ってくれたことが印象的でした。

都会にいると薄れるつながりが、当たり前にあることにカルチャーショック。僧侶の方の呼び名も「●●おじちゃん」だったので、「僧侶」という肩書の前に「ひとりの人間」として関わり合っている関係性がゆたかだな、とほっこりしました。

黒板のあるおうち

さて、今日は「ネガティブな発言をするのも、聴くのも嫌だ。それって意味ないじゃん。早く切り替えて行動しようよ!」という方に向けて、ネガティブな感情には大きな意味があり、人生の羅針盤だ、というお話をしてみようと思います。


感情的になる人が理解できない

わたしは

「ネガティブな感情なんて意味ある?
感情なんて切り替えたもの勝ちじゃん?」

という思想で長らく生きてきました。そのルーツは、父にあります。
わたしの父は、少しでも不快なことがあると怒鳴り散らす人でした。例えば焼肉屋さんに行って、彩りよくするためにピーマンやニンジンがお肉と同じお皿に乗っているだけで店員さんに

「飯が不味くなるだろうが!!」

と怒号をぶつけたり、
洗面所の電気を消し忘れると

「誰が金払ってやってると思ってるんだ!!」

と怒鳴る人でした。(今思うとやばい人だな笑)

そんな父のもとで育ったわたしは、

「それくらい普通に言えばいいのに、どうして怒鳴るなんて意味のないことするんだろう…」

と感情的な人を冷めた目で観るようになりました。

家庭に怒鳴る人が常にいたわたしは父を反面教師として、

「自分は絶対に感情的にならない」

と常に安定、冷静な自分を保つようになりました。

おかげさまで(?)ヒステリックや感情的とは縁遠く、
「年齢の割にいつも落ち着いているね」
なんて言われることが多かったです。

ちいさなことで怒らず寛容であることが良いと思っていたし、
怒りを表に出す人はダサい、とも思っていました。

すぐに愚痴や「疲れた」というネガティブなことを言う人が理解できない

大学生、社会人になってからでしょうか。
飲み会の席で人の文句や愚痴を言いあったり、
バイト先や職場ですぐに
「疲れた」「わたしにはできない」
という人がわたしには理解できませんでした。

「そんなこと言ったって現実は変わらないんだから行動するしかないじゃん」
「他責だなあ…」
「ネガティブに目を向けたって、なんの生産性もないじゃん」
「自分の感情くらい自分でマネジメントするのが大人でしょ」

と、ネガティブな感情を言う人に対して、冷ややかな目で観ていました。そういう人とはなるべく関わらないようにしよう、と思っていたし、自分はネガティブな発言をせずに常に向上心を持ち、自分ができることや未来の可能性の方に目を向けていようと明るく振舞ってきました。

何か嫌な出来事があっても、それが起きた理由や、どうすれば解決できるかに意識を向け、「嫌だった」「悲しい」「傷ついた」などの感情には目を向けないようにしていました。だって、そこに費やす時間が無駄だから。

周囲からは、「意識高いね」「強いね」「いつも向上心があってすごいね」などと言われていて、かつてのわたしはそれが正しい姿だと思っていました。

自分でも気づいていなかった本当の声

ポジティブで、自立的であることが良いと信じ切っていたわたしに、転機が訪れます。社会人5年目を迎える頃から寝ても寝ても疲れがとれなかったり、普段だったら平気な電車や飛行機が怖くなったり、呼吸が浅くなり過呼吸になったりと原因不明の体調不良が続きました。

問題が起きても立ち向かって克服し続けてきたわたしの心身は、気付かない間に擦り切れていたようで、強制的に立ち止まざるを得ない状況になりました。コンピューターに例えるならば、データ容量が重すぎたためか強制シャットダウンを起こしていました。

意識では、まだやれる、と思っている自分もいましたが、
過去に同じパターンを繰り返した結果が今回の強制シャットダウンだったので、今回はからだの声を優先して休むという選択をすることにしました。

そしてわたしは、人生ではじめてネガティブな状況を克服せずに立ち止まるためのキャリアブレイク(一時的な休職・無職期間)を決意します。

キャリアブレイク期間では、これまで観ないようにしてきたネガティブな感情に向き合うことになりました。

これまでは、疲れた、苦しい、悲しい、寂しい、つらいなどのネガティブな感情はカッコ悪いもの、出してはならないものだと思って生きてきましたが、自分とゆっくり向き合った結果、ネガティブな感情は自分が本当に満たしたいこと、実現したかったことを含んでいることを学びました。

例えば、幼少期の怒鳴る父に対して。
当時、家出をしたところで1人で生きていく力がなかったわたしは、
自らの内側に籠って父の感情になるべく触れないことが生きる術でした。

でも本当は怒号の飛び交う家は怖くて帰りたくなかったし、
家に居ると不安で恐ろしくて堪らなかった。

何でも願いが叶うとしたら、両親ともに平穏な関係性であってほしかったし、家という場所は安心して居られる場所であってほしかった。

「愚痴や文句などのネガティブな感情は無駄だ」としていたのも、
本当は愚痴を聞いていると苛立ちを感じている自分がいたし、

その苛立ちの奥底にはわたしだってつらいよ、しんどいよと弱音を吐きたい自分も居たことに気付きました。

自分と向き合い感情の意味を知るまでは、ネガティブな感情なんて無い方が良いと思っていました。だけど、感情にはちゃんと役割がある。

ポジティブな感情は「そのままGOGO!」という現状の生命活動が上手くいっていることを表しているし、ネガティブな感情は「本当に大切にしたいのはこっちだよ、気付いて!」という心と身体をつなぐ信号の役割をしてくれていたのです。


わたしはネガティブな感情は無意味だと切り捨て、自分の本当の願いと、つまり自分自身とつながれていなかったがために、意識ではなく身体に知らせる体調不良という出来事として教えてくれていたのだということに気付きました。

わたしはキャリアブレイク前に会社員時代に組織開発系の仕事をしていたのですが、社員をデータ化してハイパフォーマー・ローパフォーマーに区分して分析する業務がありました。


それも当初は「仕事だから」と割り切ったつもりでいたのですが、よくよく向き合ってみると人をひとつのものさしで二分して評価する構造自体に違和感を抱いてモヤっとしていたし、ネガティブな感情の奥には「本当は人をそんな風に捉えたくない!どんな特性があっても、同じように価値がある世界で生きたい」という願いも含んでいました。

ネガティブな感情の役割と意味

自分のネガティブな感情を感じることは、気持ちいいことではありません。だからこそ排除したくなるし、切り替えて生きた方が楽しいじゃん!となります。

でも、元々ポジティブで克服型だったわたしが今では
「ネガティブな感情にこそ、自分の人生の羅針盤がある」と思っています。

悲しみは、
本当はあるはずのものが無いという愛や願い
が込められています。

怖れを口にするとき、
本当はやってみたい、挑戦したいという
自分への信頼や勇気も同時に含んでいます。

怒りは、正義を求める情熱があるからこそ感じるものです。

自分には何もないという無力感は、
空っぽの器であり、新しい何かが生まれる前兆であると教えてくれます。

物事は表裏一体、陰と陽で出来ています。
例えば、関係性。これを読んでくれているあなたがわたしと同じようにポジティブ自立、克服タイプであるならば、きっとパートナーは受容的で、愛に溢れ、時に保守的であなたにとって安全基地のような役割を担ってくれているかもしれません。

あなたが理性的な方であるならば、パートナーは感情豊かな方かもしれません。

自然界も同様です。
冬になって葉が落ちると、次第に春になり芽吹くように。
日が落ちて夜になり、月が出る。夜が深まり、次第にまた日が昇っていくように。
生きるということは、いつか死ぬということです。
死んでいるということは、生まれ変わる余地があるということです。

そうやって世界は成り立っています。
だから、ポジティブだけでも、ネガティブだけでもない。両方がともにあってひとつの世界を構成しています。

ポジティブに偏ると、大切な人との離別や、事故、体調不良などいつかネガティブな現実が生じてきます。

逆にネガティブが極まれば、段々と浮上し新たな可能性にひらいていく。

だから、ネガティブな感情が湧いてくることは極めて自然なことだし、
安心して感じていい。感じ切ったら、自然と移ろいゆくものです。

ネガティブな感情から、願いに気付くプロセスとは

とはいえ、ネガティブな感情に浸ってみる、感じてみることは口でいうほど簡単ではありません。だって、痛いもの。絶対に痛いと知りながら、足つぼマッサージに行くことは、なかなかに勇気のいることです。

では、どうしたら恐れることを恐れずに、ネガティブな感情に浸り、奥底の願いにつながることができるのでしょうか。

それは、「ひとりでやらないこと」です。

自分の痛みにふれても大丈夫という安心感を感じられる場と、仲間のもとでなきゃ、痛みを感じること、表現することも出来ません。

そして痛みに安全にふれるやり方、ガイドなしにいきなり飛び込むのは、命綱なしでバンジージャンプするようなものです。経験を積んだガイド(コーチやファシリテーター、カウンセラー)と共にダイブするからこそつながれる願いがあります。

ちなみにわたしが主宰する「つながりの学校」でも、
つながるコミュニケーション術という授業の中で
ネガティブな感情、痛みを扱うワークがあります。

★つながりの学校とは★


自分とつながるには、その道中でネガティブな感情にふれることは避けられないし、自分らしく他者や世界とつながるにはポジティブな側面だけでは持続可能じゃない。

ネガティブなことが一切無いほうがいい、という思想もありますが
わたしは、そうは思いません。

むしろ、表面化されていないネガティブな感情は水面下で次第に膨れ上がり、いつか何かの事件として生じてくるから。

だからこそ、互いを信頼し安心して、ネガティブも含んで表現しあえるつながりの場が必要だとわたしは思っています。

つながりの学校メンバーとの1枚

そのためのコミュニケーション方法をつながりの学校では学び合います。

つながりの学校メンバーは、これまで家族にも言えていなかったことを言えるようになったり、同調しかできなかった相手のホンネを聴く「聴き方」を習得しながら人生レベルで人と深い関係性を育めるようになりました。

また、メンバーの1人で適応障害をきっかけにキャリアブレイク(一時的な休職)をして、つながりの学校に入学をしたみなちゃんは、蓋をしていた痛みに向き合うことで、心から自分が好きなこと、やりたいことに出逢いなおしました。

どんな痛みに向き合い、どのように自分の願いや変革につながったかのストーリーはつながり学校オープンキャンパス(体感de自己理解)にてご紹介します。気になる方は、ぜひ公式インスタグラムをフォローください!


恐れることを、恐れない。

痛みやネガティブな感情を避けるのではなく、どんな出来事や感情が生じてもわたしは大丈夫と自分や他者を信頼できる在り方が人生をゆたかにすると信じています。








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