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こぼれ落ちた記憶との対面

私はエッセイを読むことが好きだ。
ふとした日常からの発見や、印象的な出来事、日々考えていることなど、自分と異なる人生・価値観を持つ誰かの話は、私に”きっかけ”を与えてくれる。

この”きっかけ”とは、未知のことへの”関心のきっかけ”であったり、異なる考えを”理解するきっかけ”であったり、忘れていた記憶を”取り戻すきっかけ”でもある。

ちょうど最近、一つ取り戻した記憶があった。

エッセイを読んでいると、著者の気持ちに引き摺られるのか、自分にも同じような経験があったことを思い出す。いつの間に忘れていたのかも分からない、そんな記憶が蘇るのだ。

佐藤雅彦氏の『決着のはじまり』というエッセイを読んだ。
50年近く前、高校生の頃の下宿先のおじさん、おばさんに挨拶をせずに別れたことがずっと気がかりで、下宿先の近くで講演をする機会に二人に会いに行こうとするお話。50年前の曖昧な記憶を辿って下宿先を探し、自分のことを覚えているかも分からない相手に会いに行く情景を思い、目頭が熱くなった。あぁ、私の中にも同じ後悔があった。

大学生の頃、私は行政インターンシップのプログラムに参加した。そこでは大学OBの講師の元で、講義を受けたり、インターン生として行政の現場で勉強させていただいた。

講師を務めたS先生は、服装は必ずスーツの正装で、髪形はムースでかっちりしたオールバック。実はその自治体ではかなり偉い立場だったらしいが、私たち学生にも、インターン先の担当者の方にも、常に低姿勢で物腰柔らかく接する方。はじめは恐縮していたが、近所の優しいおじさんのような雰囲気に拍子抜けして、緊張はいつの間にかほぐれていた。

特に印象的であったのは、真夏に農作物の研究所に訪問した時のこと。ビニールハウスの中で話を伺ったが、正直内容は全く頭に入らなかった。地獄のような暑さで、時間の経過ばかり気になった。クールビズではどうにもならない灼熱であった。

そんな中、S先生はいつも通り完璧にジャケットを着こなし、当然のようにネクタイも締めていた。汗一つかかずに、いつも通りの飄々とした雰囲気で楽しそうに話を聞いている。化け物かと思った。”スーツは戦闘服”とどこかで聞いた気がしたが、こういうことかと朦朧とした頭で何故か得心していた。夏でもジャケットを欠かさない私の習慣は、確かこの時から始まった。

S先生の人柄や立ち振る舞いは、まさに紳士的だった。インターンの講師を超えて、社会人として、大人として尊敬するようになった。私以外のインターン生も、似た眼差しでS先生を見ていたと思う。

結局、私も含めたインターン生全員が、S先生と同じ自治体の試験を受けた。私は民間志望だったが、公務員として働く選択肢を捨てることができず、並行して就職活動していた。

しかし、私は1次試験の筆記で落ちた。あっけないものだった。幸い民間企業からは内定を得ていたため、就職先はある。ただし民間企業も第一志望には受からず、後悔が残る結果となった。
公務員か民間か、どちらかに絞り切ることができず、かといって上手く両立できなかった中途半端さが恥ずかしくなった。S先生にも、友人にも顔向けできないと思っていた。

S先生には、試験に落ちた時にメールを送った。公務員は諦めること、民間企業のどこかで働くということ、そしてこれまでの御礼を綴った。当時の私の精一杯であった。

後ろめたい気持ちを抱えて書いたメールには、本当の気持ちは書けなかった。その儀礼的なメールでS先生から逃げたことをずっと後悔した。できることならやり直したいと思っていたはずが、終には記憶からこぼれ落ちていた。

S先生と最後に連絡を取ったのは約5年前。長い空白期間となってしまった。それでも、佐藤氏の50年と比較するとたったの10分の1だ。
あの時言えなかった本心からの御礼と、転職して目指していた業界で働いていることをS先生に伝えたい。覚えてくれているかも分からないけれど、これからメールを送る。

哲学者ニーチェは、「忘却はよりよき前進を生む」と言った。
確かに、成功体験も失敗体験も、囚われてしまうと足枷になるかもしれない。身軽でいた方が、きっと動きやすかろう。
ならば、”忘れる”という機能は成長に資するものであり、忘れたことなど思い出す必要はないのかもしれない。過去は振り返らず、前だけを見るべきなのかもしれない。

それでも、私はこぼれ落ちた過去と再会したいと思う。
やり残した記憶を取り戻して、真っ直ぐに対面したい。当時できなかったことが、今ならできるかもしれない。消化できなかった気持ちを昇華することが、無意味なこととは思えない。

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