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あなたの文章は、きっとどこかで誰かに届いている|#118

文章、ここでいうのは文字列がつくるテキスト情報だけれど、彼らはその身に「意味」以外をまとっていない。

これが対話や動画になると、話が変わる、「意味」以外の情報をたくさんまといはじめる。声のトーンや表情、周囲の光景……、追加情報と相まって、同じ「おはよう!」でも字面以上に伝わる情報は多い。

ところが冒頭の話に戻ると、文章(テキスト情報)は意味以外に持ち合わせる情報はない、あったとしても極少だ。「ひらがな・カタカナ」に至っては、1文字では意味すら身にまとえないんだから。


潔いなあ、と思う。


ということは。
意味以外の情報をまとっていない、文字列で構成される「文章」の解釈は、読み手に委ねられることが多い、ということだ。

《注意》
「情報を正しく伝える」のが主旨である文章、たとえば論文やニュース等は除きます。これらは読み手によって解釈が異なってはまずいので、100人読んでも同じ理解ができるように精緻に書かれていますから。
それでも多様な解釈が生まれてしまうんですけどね。

読み手がそれぞれ自分に合あわせて解釈する余地があるからこそ、「文章」は面白く奥深い!


「文章」を解釈するのは読み手だ。
発信者はもちろん何かしらのメッセージを乗せて文章を書くわけだけれど、自分が発したメッセージが100%読み手に伝わるとは限らないということだ。

伝わらなくて普通だ、とすら思う。

読み手には読み手の人生があり、人間関係があり、日々の生活があり、喜びや悩みもある。そんな様々な状況の中で「文章」を読む。よって読み手が「自分に合わせて」解釈するのは当たり前、文字通りの十人十色。

だから、文章は面白い。


* * *


話は変わって。
有意義な文章を書かないといけない気がする病」に良くかかる。有意義な文章とは、たとえば誰かにとって役に立つこと、共感を生み出せること、ノウハウ、あるいは失敗からの教訓……、そういった類のもの。

「有意義な文章」の価値は高い。ニーズがあるのは知っている、noteのダッシュボードでPVと「スキ」の付き方を見ていると一目瞭然。

自分が「有意義な文章」を書くモードには入れている時はそれでいいのだが、問題は時折そのモードが途切れるときがあることだ。

「有意義な文章を書かないといけない気がする病」にかかっているので、有意義な文章が書けなくなると途端に何も書けなくなる、書く気が起きなくなってしまう

どんな話を書いても「こんな文章書いても意味ないよな……」と自棄になり、書かなくなるというサイクルに入る。

周期的にnoteの投稿頻度が落ちるタイミングがあります。物理的に書く時間が取れていない時も事実ありますが、何も書けなくなり頻度が落ちていることの方が多いですね。


思い当たる節がある人は多いのではないかしら。


* * *


そんな悩みに悶々としていたここ数日。
今日ふと、シナプスが新しいつながりを作った瞬間があった。

それは「文章の解釈は読み手次第。届いた人が、思いもよらぬ解釈をし、価値を感じてくれる可能性は大いにある。だから思ったことをそのまま書けばいいのかもしれない、『有意義な文章』を無理に生産しようとしなくてもいいのかもしれない」ということ。


誰かにとって役に立つこと、共感を生み出せること、ノウハウ、あるいは失敗からの教訓、そんなのがなくても書いていいんじゃないか。

ふっと肩の力が抜けた。


素直で等身大の文章」という点さえ忘れなければ、どんな内容を書いてもいいと思う。素直で等身大な文章には、不思議と発信者の思いが宿るから、本当に不思議だけれど。

そして「思い」は、人の心に届きやすく、動かしやすい。

有益な文章でなくてもいい。素直で等身大の文章を書けばいい。誰かに届けば、きっとその人が自分の現状に合わせて解釈し価値を感じてくれるから。


逆に言えば、どうしてもこれを伝えたい!と思って書いても、完璧に伝わることなんてありえないわけだ。
だって、「解釈」するのは読み手の役割だから。

書き手がコントロールできるのは、メッセージと想定される解釈の差を縮める努力だけ(差を0にしたければ論文を書きましょ)。


他力本願というわけでもなく、悲観的な話でもなく、私にとってはとってもポジティブな気づきだった。


* * *


書くことに対して、構えなくていい
あなたはあなたらしく、等身大の言葉を綴ればいい。
なぜなら文章は相手が解釈するという領域が多いものだから。

あなたから離れた文章はどこかで誰かに届き、その人が「自分なりに」解釈してくれる。

その人はあなたの文章から気づきを得るかもしれないし、勇気をもらうかもしれないし、共感するかもしれないし、行動のきっかけになるかもしれない。それは分からない。

あなたはただ、読み手の数だけ解釈が生まれるという現実を楽しめばいい


自分らしくない文章を歪曲解釈されてはたまらないから、等身大で素直な「自分らしい」文章という点だけは外せないけれど。


だから……、私たちは、書くことをもっと楽しもう!
あなたの文章は、きっとどこかで誰かに届いているから。


* * *

noteでもTwitterでも仲良くしてくれているゆーじさんが、こんなツイートをしていた。

私も「文章」という分野で、どこかの泉に通じる水脈の支流くらいには辿り着けたかな。そうだといいな。



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