母の話、父の話、わたしの話

拙い日本語で、書き綴ろうと思う。
過去の話を。




小学校6年生の時に、父が死んだ。
享年、38歳。癌だった。
あの日はたしか、友達とプールに行く約束をしていて、祖母から電話がかかってきてから、友達に断りの電話を入れ、仲の良かった事情の知ってる友達にだけ、病院に行くと伝えた。
その時は、まだ生きてると思っていた。

1人で電車に乗り、なんとか頑張って病院に着いたら、もう父はすでに息を引き取っており、死に目には会えなかった。祖母は泣いてわたしの名前を呼んだ。

わたしも一緒に静かに泣いたか、大泣きしたかは、どうだったかな。その後、母が来て、たしか唐揚げとかを売店で買ってもらって。これ以降の記憶は本当に、ない。

ここから、わたしの現実逃避が始まった。
父が死んだという現実を、受け入れたくなかったというか、理解したくなかった。

家に帰り、リビングで父の遺体を囲み、みんなで寝たような記憶はある。父は微かに笑っていた。
果たして、ほんとうに死んでいたのだろうか?
その時点では、いつもと違う状況に、小6のわたしは浮き足立っていた。

次の日には、お通夜と、その次の日にはお葬式があり、父は公務員で刑務所に勤めていたので、すごくたくさんの人が来てくれたことを覚えている。わたしはというと、もちろん浮き足立っており、従兄弟たちとそれはそれは、はしゃいでいた。自分の父の葬式で。当時の大人たち、ゴメン。

友人にはあまり伝えていなかったけれど、当時の親友と、近所の子たちが来てくれた。一寸の涙も流していないわたしを見て、強いね、と、言った。強い、が何かはわかっていなかった。

火葬場に向かっている途中、父が勤めていた刑務所の同僚たちが、笛と同時に、一斉に敬礼をしてくれた。そんな光景を見ることは、この先一生ないだろう。骨になった姿を見ても、父が死んだ実感は湧いてこなかった。

そこからは、ただ日常が過ぎていった。だって、学校にも、塾にも行かなければならないし。変わったことといえば、母が、わたしを育てるためにフルタイムの仕事を始めたこと。犬を、飼い始めたこと。犬種はパピヨンで、名前は、ソラにした。父が死んでから、割とすぐだったと思う。

その間にも、母とは一度も泣きあっていない。
わたしの中の問題は、父が死んだことではなく、
母と上手く向き合うことができなくなり、
まともに話もできなくなったことの方が大きい。
家族がバラバラになったと感じた。少しずつ少しずつ、心は壊れていった。

元から、パパっ子ではあった。
今思うと、いいとこ取りのパパなんだけれど。
家のことは全てママがしていたし、パパは仕事以外ずっと寝ていたし。
けれど、あの時は遊びに行って一緒にはしゃいで、たまにお風呂に一緒に入って、怒ると一段と怖かったけど、パパが大好きだった。だから、パパの方に懐いていたような気がする。

ママは、大人しい方だし、そんなに感情を表に出すタイプではなかったから、物心ついてからたくさん話した記憶はない。
もちろんママのことは大好きだった、けど、昔からあんまり馬が合ってなかったような気がする。

父と、旦那を亡くしたわたしたちは、お互いがお互いにバレないよう、泣いた。
親子なもので、馬は合わないが、性格は似ていた。
自分が我慢すればいい、と、お互い思っていた。
父のことについて話すのを徹底的に避け、母は、わたしがお金の面で苦労しないよう、本当に忙しなく働いていた。だけど、それ以上に、もはやなにが気に食わなかったのかわからないが、常にわたしに怒っていた。わたしは、お金よりも、愛が欲しかった。夫を亡くしたばかりの母に、愛を伝える余裕なんてなかったのだろう、と今は思う。

わたしが中学3年生の頃、全てが辛くて、毎日毎日泣いていたのを、母は知っているだろうか?

母にも、泣いて眠れない夜があったのだろうか。

わたしは、中学3年生の頃にやっと、父がいなくなったことを理解し始めた。高校に進学するにあたって、母子家庭あるあるの、金銭面などを理由に行きたいところに行けない的なやつ、に直面したからだ。結果的に、母が折れてくれて、その行きたい高校には進学できたのだが。

進路のこと、友達のこと、部活のこと、母のこと。
全てが辛くて、でも、誰にも言うことはできなかった。当時から、そんな話されても困るわな、ということは、わかっていた。みんなここまで悩んで、死にたいなんて考えていない。この頃からの悪い癖で、今も、何かあった時友達にすぐ相談したり、ぶちまけたりすることは、苦手である。何で言わへんの?!って、だって、困るじゃん、

死にたいなんて言ったら。

だから、毎日父を思っては、泣いた。
どれだけ辛いことがあっても、正直、この時期を超える辛さはない。乗り越え方も知らなかったのだから。

学校では明るいわたしを取り繕い、自分が見えなくなった。無理をしていたわけではないが、そこから、壊れるのははやかった。まずはテストの時に学校に行けなくなり、友達との約束を破るようになり、お風呂に中々入れなくなった。母はおかしいことに気づいていただろう。

なんとか受験も終わり、中学を卒業し、高校に進学した。吹奏楽がしたかったから、選んだ高校。毎日夜20時頃まで練習した。楽しかった。希望の楽器のオーディションには落ちたけど、それでも楽しくて楽しくて仕方なかった。同じ熱量で吹奏楽が好きな人たちがたくさんいた。わたしのことを理解してくれる子も、先輩もたくさんいた。

それでも、いつだったか、突然。部活の休みができると、瞬間、学校に行けなくなった。たぶん、テストの時。テストは受けたけど、初めは1日だけ!と思っていたのが、ずるずると行けなくなった。

1学期の期末テストだっただろうか?覚えていないけど。部活にも先輩にもとても迷惑をかけた。

そのときは、起立性調節障害、と言われていた。
朝起きることができない、特に学生がよくなるやつ。

本当にそこから起きれなくなって、行けなくなって、本当に不登校になった。まさか自分がなるとは思ってもみなかった。母と毎日戦った。
なぜか、夏休みだけ、部活には行った。もちろん、夏休みが終わったら、学校には行けなくなった。

友達においでと言われれば言われるほどいけなかった。本当に行きたくなかった。それまではテストとかの、結果が生じるものとか、日常と違うことが起きる時に行きたくない気持ちが強かったけど、学校そのものが日常と違うものに変わり、外に出るのがしんどくなった。完全に引きこもりだ。

誰に何も言われていないのに、外に出たら誰かに噂される、非難される、と、思い込んでいた。
ここらへんは、鬱経験者ならわかると思う。

母には、一層苦労をかけた。
母こそ鬱になってもおかしくないくらいに。

2年生になると、通信制の高校に編入した。
わたしのような訳ありの子と、ヤンキーしかいない、通信制の高校。そこで、ある女の子と出会うのだが、その話はまたいつか。

週に何回の登校すら、行けない時もあった。
とにかくレポートと、数少ない出席で単位は取れたので、かろうじて卒業までありつけた。途中からバイトをしたり、部活をしていたならできていなかったであろうことに熱中した。それなりに楽しかった。ただ、吹奏楽には未練があった。音楽が好きだったのだ。

ある女の子のおかげで、生きれた、高校生活。
その女の子にとっても、そうであれば、幸いである。わりと、その子が全てだった、高校生活。

その後は、指定校推薦で女子大に入学し、ぱっと見は普通のキャンパスライフを送ろうとしていた。無理だったが。やはり、一度線路を抜けてしまうと、なかなか合流できないものだ。友達の作り方がわからなかった。普通の人の空気感がわからなかった。

それでも、徐々に喋れる子が増えて、遊べるようにもなった。それからは、そこそこ楽しく過ごして、4回生ギリギリまで授業に出席し、大学を卒業するまでに至った。この4年間に、人と少しズレていた自分を、少しずつ修正した。そのことに必死だった。なんだか、合わせるだけではなくて、自己開示も大事らしい。難しい。

その間、母と仲良く会話はできていない。
大学でも行きたくない病は発症したし、そしたら母は盛大に怒るし、バイトで帰るのが遅くなれば、それはそれは怒られた。少しでも家を汚そうもんなら、それはそれは怒られた。本当に疲れていた。どちらも。
母も母で、怒ることでしか何も伝えられなかったのだろう。とにかく、常に怒っていた。今ならば、怒る理由もわかるのだが。そんな、大学4年間。

社会人になり、わたしは彼氏の家に転がり込み、
やっと、母と喋れるようになった。離れることで、お互いの嫌なところが目につかなくなり、心穏やかに、会話ができるようになった。わたしは、母の偉大さに気づいた。親子といえど、程よい距離感が大事であると身をもって経験した。自分の娘には、大学生になる頃には出て行ってもらいたいものだ。いや、それも、少し寂しいな。

さらに、母と仲良くなれたのは、わたしが妊娠した時。はじめこそ結婚してなかったので、はちゃめちゃに怒られたし、堕ろせ、と言われた。頑なに嫌がったが。結婚して産む、と決めてからは、誰だこの人は?となるくらいに、人が変わった。それほどに、孫の誕生は大きかったのだ。

頭を撫でられ、抱きしめられ。それだけでわたしは、泣きそうだった。母の前では泣いたことはないが。これを、求めていたのだ、ずっと。ずっと。
ただ、話すことはできなくても、抱きしめてほしかった。それだけで愛は感じられたのに。母は愛情表現が下手だったように思う。わたしは、とにかく愛情に飢えていた。大学生の時の彼氏に、はじめて愛を伝えられて大泣きするくらいには。それまで、愛に飢えてることにも気づいていなかったのだ。

この、はじめて愛を伝えてくれた彼とは、わたしのせいで別れているのだが、それをまた、今でも後悔していることは、別の話。

わたしもわたしで、人を愛したことはない。いわゆる"メンヘラ"ではあるが、それは愛ではないのだ。今の人のことも、愛してはいない。付き合っているとき、死ぬほどに惚れていたこともあるが、それも愛ではない。だけど、ある女の子のことは、愛している。これはまた違う、愛。

そんなわたしが、はじめて心の底から愛した存在が、自分の娘である。顔がそっくりなこともあり、自分の分身であると強く思うし、この子のためならなんでもできるし、この子が幸せであれば、わたしはどうだっていい、とすら思う。無償の愛だ。子どもを産むことはエゴであるが、わたしに、そんな気持ちにさせてくれてありがとうと、思う。

母にとっても、私という存在はそうであったのだろう、わたしはそれを無下に扱ってしまった。今は孫という存在のおかげもあるが、良好に、関係を築けている。クリスマスプレゼントを渡しただけで、えらく喜んでくれる母が、好きだ。こう思えることが本当に嬉しく、素晴らしいことであり、わたしにとっては奇跡なのだ。あの頃、話せなかった父のことも、少しずつ、ポツリと、話す。わたしたちができなかった話し合いを、旦那とはしなさい、と、言う。わたしに幸せになってほしいという、母の願いだ。

やっと、母と本当の親子になれた気がする。
無論、父にも孫を見せたかったが、叶わぬ夢だ。



ーーーーーまた、その父の話に戻るが。
父の病を告げられたのは、余命1か月の時。

しばらく、父は体の不調を訴え、家ではずっと痛さに怒っていた。いろいろ病院に行ったが、癌に気づいたときには手遅れだったらしい。若いから、進行が早い。わたしは何も知らなかった、聞かされていなかった。ただ、なぜか1人で冷凍のご飯を食べ、父と母の帰りを待っていた。入院し、母と祖母が交代で付き添いし始めたころ、突然、夕飯時に、

「パパ、病気で、余命1ヶ月。」

そう、母に告げられた。
意味がわからず、混乱し、泣いた。

その頃は、わたしも感情を出して泣いたし、母もそれに応えていたと思う。この時はできたのに。

人生で1番辛かった瞬間は、父が死ぬことを告げられた時かもしれない。

1ヶ月はとても早かった、死んだのは、そこからちょうど1ヶ月だった。小学6年生が、1ヶ月そこらで、父親が死ぬということを受け入れる準備はできないと思う。脅威の回復をみせ、一度は退院もしたし、仕事も復帰しようとしていた。家にいるパパを見たのはいつぶりだろう、と思った。幸せも束の間、やっぱり、病には抗えなかった。もう一度入院した時、電話で、何度もごめんな、ごめんな、と言われた時のことは今でも鮮明に覚えている。謝られても、わたしにはどう答えたらいいかわからなかった。何がごめんな、なのかもあんまりわかっていなかった。ただ、生きてほしかった。

生前、よく、わたしのウェディングドレス姿を見るまでは(生きたい)、と言っていたらしい。小学6年生の時にそう言われても、それもまた、よくわからなかった。今結婚して、相手にわたしのウェディングドレス姿を見たいという概念がなくて、泣くまでは。父が生きていたら、わたしの旦那は殴られてるんだろうな、と思う出来事がたくさんある。殴ってくれよ、とも思う。

そんな旦那も、今はだいぶ家族のために尽くしてくれている。たぶん、父より。(笑)
今になって、父の中の男尊女卑を母に語られ、唖然とする。母もしんどかったろう。それでも、母と父は愛し合っていたと思う。

12歳の時に父は亡くなったので、その倍の24歳の時は、節目であると思っていた。ちょうど父が生きている時と死んでからが半分になり、そこからは父が死んだ後の方が長くなるから。だから、24才で結婚して、早く子どもが欲しかった。だって、いつ死ぬかわからないから。そのことで、元カレにはだいぶプレッシャーを与えた、らしい。(笑)わたしは、12年間しか、父と過ごせなかった。今でも、父に会いたいと思う。夢にたまに出てきて、生き返ったと思って、起きたらそんなことはなくて、絶望で泣く。今でも会いたいと思えていることは、幸せなのだろう。

そんなわたしも、母になり、家族ができた。わたしは、正直家族がよくわかっていない。あの人は、父親が何かわからない。そんな人と、理想の家族を築けるかはわからないが、なるべく、娘が幸せになるように、わたしのような思いをしなくて済むように、精一杯の愛を注ぎたいと思う。

愛しているのだ。娘を。

これを旦那にでも読まれようもんなら、恥ずかしさで死ねるな、という文章を描いた。だけど、誰かの心に響けば、嬉しい。



最後に。

ーーーーー人には人の、地獄がある。

わたしの好きな言葉というか、誰かの受け売りなんだけど。これを読んだ人の中にはこんなんで鬱になんのかよって思う人もいるかもしれない。だけど、世の中にはたくさんの人がいて、たとえば芸能人にだって深い悩みがあって、その人にとっては、それは、地獄なのだ。地獄を感じるポイントも、状況も、何もかも人それぞれ。笑っているあの人にだって、地獄がある。大なり小なりね。人によってキャパシティが違うから、大きいキャパシティを持っている人は、小さいキャパシティしか持っていない人を、助けようとするかもしれない。それでも、人の地獄を一緒に背負うことは、またそれは地獄なのではないかと思う。
無理をせずに、少しずつ分け合えれば、いいなと思う。みんな、全員を受け入れなくてもいいが、誰かは誰かを、少しだけでも、受け入れる余裕がある、優しい世界であってほしいと、切に願う。


綺麗事だけどね。


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