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ヤングケアラーのその後③|生きづらさ・トラウマとの戦い【社会人編】

2022年10月25日の記事を加筆・訂正しています。更新2023.7.30

■休職するまでの経緯

1|診断後も働き続けた【11月】

人を頼るという概念がなかった私は、自分がしんどいことも、病院にいったことも、診断を受けたことも一切に人に話すことはありませんでした。

上司にも、先輩にも、同期にも、友人にも。もちろん父にもです。特に父には心配をかけると思い、絶対に言わないと決意していました。

自分一人で「まだいける。大丈夫だ」と身体のSOSを無視して、診断が出た後も私は働き続けました。当然、症状はますますひどくなっていきました。

特に朝のしんどさは、本当につらかったです。なんといったらいいのか、今まで体験したことのないようなしんどさで、体を動かすのもやっとの状態でした。そのため、タクシーを使って職場に向かうようになっていました。(それまでは電車通勤でした)車中ではぐったりと死んだように眠り、ふいに涙がこぼれることもありました。

職場では、声を出すことすらしんどく感じました。必然的に会話する回数が減り、食欲もないので同期と食事を共にすることもなく、ますます人との関わりが薄くなっていきました。

そんな私は周囲からみると、相談もせず、困っているのに人を頼らない「何も言わない、よくわからない困った子」だったと思います。
本当に迷惑ばかりかけました。

しかし、そんな私に先輩方は「困っているなら、人のことを頼らないと!仕事なんだから、自分がますます困るよ?」と声をかけて下さっていました。しかし、私はそれでも、心を開くことができませんでした。
それどころか、先輩方が自分を責めていると感じ、「こうなったのは全部自分のせいだ」とますます自責感をつのらせていきました。

家では、この極限状況を脱したいという思いから、自殺願望を強く抱き、死ぬことばかり考えていました。
死にたいというより、消えたいと思いだったかもしれません。
ただ、痛い思いをして死ぬ覚悟がなかったので、当時の私は餓死を試みていました。意識を失うように楽に死ねると思ったのです。

しばらく水さえ口にせず、その上、必死に筋トレをして一刻も早く体のエネルギーを枯渇させようと謎の努力をしていた時期がありました。

でもなかなか、死ぬことはできませんでした。


「人間の体って丈夫なんだなぁ、なかなか死なないもんだなぁ」
なんて思ったりしていました。

2|生きているのが不思議な状態だった【12月】

今振り返ると、この頃はもう生きていたのが不思議なくらい、ふらふらな状態でした。(栄養ドリンクを飲み、身体を奮い立たせて職場へ行っている状態)

家ではカーテンもあけず、ベッド上でっぼーっと横たわったまま、その日を終えることが増え、歯磨きやお風呂等のセルフケアもやっとの状態でした。

自宅で一人過呼吸になり、救急車を呼ぼうと思うくらい息が苦しくなった時は、本当に死を覚悟しました。

死をのぞんでいるのに、死が怖い。たぶん、まだどこかで生きていたかったんだと思います。


3|出勤しようにも、もう身体が動かなかった【1月】

年明け初日の出勤日、私はもうベッドから身体を起こすことができませんでした。

職場に電話をし、上司に初めて精神疾患を患っていることを伝えました。
情けなさと申し訳なさで、ぼろぼろと涙が出ました。

ありがたいことに「そうだったんだ・・。気づかなくてごめんね。今はゆっくり休んでね」と温かい言葉を頂き、仕事を休職することになりました。


そして、私は最終的に3カ月間休職することになります。


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