【知覧特攻平和会館】に行ってきた。②
友人2人と訪れた鹿児島で、一番行きたかった「知覧」に行ってきました。
知覧特攻平和会館で受け取ったものを書いていきます。
最前線にいたのは、”子供”
中に入ると、壁一面に特攻隊の方々の写真がズラーッと並んでいました。
知覧特攻隊の戦没者数は1,000人以上。
お一人お一人の写真を見ながら、ガラスケースの中にある”最期の手紙”や遺品を見て回りました。
驚いたのは、特攻隊の方々の顔写真です。
みなさん、僕たちと同じくらい、あるいは、僕たちよりも若い方ばかりです。
10代後半〜20代というと、現代でいえば「一番楽しい年代」とも言えるかもしれません。
子供から大人への変わり目、自分の興味のあることに一直線になり、時に失敗もしながら、社会に出ていきます。
人を愛し、愛され、時に裏切られながら、心の機微や襞を学んでいきます。
そんな年代、青春真っ盛りの年代の方が、
「国のため」という作られた大義により、かけがえのない、たった一つの命を”兵器”へと変えなければなりませんでした。
「当時の10代後半は、もう立派な大人よ」
昔、あるおばあちゃんからこんなことを言われたのを思い出しました。
そんなもんなのかな。
当時はそれくらいにしか思っていませんでした。
しかし、ここ知覧で見た”若者の顔”は、違って見えました。
「子供・・・」
全国から集められた若者の顔は、26歳の自分から見ても、「子供」でした。
幼い顔立ちに軍服と白黒写真で、大人っぽく見えていますが、よくよく見るとまだまだ子供です。
”戦争によって多くの若い命が絶たれた・・”
こう耳にすることもありますが、実際にこうして自分の目で見て”体温”を感じると、「戦争」と「若者」という二つの言葉が、妙に調和しているかのように響いてきます。
こんな若者・子供が簡単に命を犠牲にしなければならないのか。
感情というよりも、目の当たりにした事実と温度感で、身体全身がモゾモゾしてきました。
お母さんにも、きっと、本心が言えない、でも、きっと、伝わっている
展示物の中でも、”最期の手紙”は、特別人だかりができていました。
じっと内容を見つめ、こらえきれない涙をハンカチで拭いながら見ている人もいました。
いくつか記憶に残ったものをご紹介します。
(※内容は僕なりの解釈です)
「母さん、今、僕、めちゃくちゃ楽しい気分だよ!
まるで小さい時に行った遠足の前の日みたいな気分だよ!
とりあえず、僕は楽しいので、母さんも悲しまず、ワクワクしててください!
じゃあ!」
若い青年が、母親に宛てた手紙です。
楽しいはずなんてないんだろう。
でも、母親に心配をかけたくない気持ち、晴れ晴れした気持ちがとても伝わってきました。
受け取ったお母さんは、この手紙を読んで何を思ったのでしょうか。
我が子に触れることすらできません。
手紙を握りしめ、ひたすらに我が子の言霊に寄り添い、ただ天を仰ぐことしかできなかったことでしょう。
そんな母親を思うと、
時代とは、なんて冷酷で無情なんだと思わずにはいられません。
また、手紙の内容が検閲を受ける可能性もあることから、内容にあまりネガティブなことを書けないという背景もあったようです。
それでも、”本心”を綴った手紙も多く展示されていました。
そういった手紙は、激励に来た女学生に託し、その女学生が自分名義で当該隊員の実家へ投函したそうです。
そうまでしないと、「最期の言葉を母親に伝えること」すらもできないのか、と。
と。
感じたのか、思ったのか、愕然としたのか。
語彙力のない僕には、それらの事実をどう捉えたのかを的確に言葉にすることすらできませんでした。
「間違っている」って言っていいの?
知覧での、抱えようもない事実を突きつけられた僕は、言葉をどのように使っていいのか、いささか検討もつきませんでした。
”人間を簡単に殺していいなんて思想は間違っている!”
”特攻なんて最悪の作戦で、間違っている!”
そう。
間違っているんです。
そう確信していました。
特攻隊員の顔写真を見るまでは。
否定したい。間違っていると言いたい。
でも、隊員一人一人の顔を見て、”最期の手紙”を読んで、遺品を見て。
「間違っていると知りながら、感じながらも、命を超えた何かのために実行した気持ちに、寄り添いたい。」
とも思うようになりました。
もちろん、特攻作戦が”良い”と思って実行した隊員もいらっしゃるでしょう。
でもやはり、この世界に何かを残し、”犠牲になる道”を選択した方も多くいると思います。
顔写真を全て見終わった僕の心の中にあった言葉は、実にシンプルなものでした。
「ありがとうございます」
なぜ、この言葉が浮かんだのか、検討もつきません。
”生まれて来てくれてありがとう”なのか。
”戦ってくれてありがとう”なのか。
”日本のためにありがとう”なのか。
わかりません。
でもなぜか、犠牲になった命の端々を見るにつけて、「戦争を正面切って否定することができなくなった」のは確かです。
決して、僕たちの世代、これからの世代で、戦争をしてはいけない。
絶対にさせない。
ただそれは、「歴史」としての戦争にしかすぎません。
歴史に翻弄され、歴史に殺された「命」に向き合うと、
ただただ寄り添い、
ただただ祈ることしかできそうにありません。
でも、やっぱり。
間違ってる、って思ってしまいます。
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終わり。
次回は、こんなことを書きます。
・涙が出ないくらいに
・ビデオ会議が嬉しい
・次は、僕たちが語り部に。
シニアの方々が、主体的に・楽しく生活し続けられるよう、頑張ります!少しでもご協力頂けると幸いです。