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瑠璃いろの海

やはりここにいたのか
砂丘に座って
瑠璃いろの海を見つめている
きみはそろそろ
ぼくの方を振り返るべきではないか

佐相憲一「革命の塩」/詩集『サスペンス』2022

 日本海側にはほとんど行ったことがない。
 岩手県へ旅した際に秋田市を通過し、車窓から町並みを眺めた程度だ。山形県に行った際は山間部のみに滞在した。
 日本海の波涛、怒濤とも形容される荒波をいちど見てみたいとずっと思っている。深い青色をしていると聞く。沖縄のエメラルドグリーンの穏やかな海とは違った魅力があるのだと思う。

 佐相憲一さんは横浜生まれ、東京在住の詩人だ。
 近刊の詩集で、新潟県上越市の直江津に近い、下小船津浜(しもこぶなつはま)というところでの様子が描かれた詩に引き込まれた。

砂丘の向こうの瑠璃いろの波
蒸発しわずかに残る塩
はねる魚を総出で迎える地引き網
これは時空の蜃気楼だろうか

佐渡から金を運ぶ宿場町からわずかに外れ
北海道から北前船が着く港をわずかに外れ
アメリカの石油会社の開発からわずかに外れ
ロシア船を見張るばかりで交易から外れ
育ててもらった一族のその後の繁栄から外れ

佐相憲一「革命の塩」抜粋

 佐相さんは曾祖父・重太郎さんの出自をたどり、新潟へ何度も旅をしているようだ。

 日本海側の地方は「裏日本」とも言われる。近世までは海産物などの流通の拠点でもあったのだと思うが、戦後の高度成長期には太平洋側ばかりが開発され、取り残された。

 近代国民国家が形成される過程で取り込まれた蝦夷、琉球も同じだと思うが、戊辰戦争のあとの東北地方、そして日本海側は日本という国家のメインストリートから外されてきた。日本が国家を形成し、国策として開発が行われる過程で生み出されてきた地域間の不均衡がある。背景には政治があるのだろうが、そのあおりをうけるのはひとえに庶民だ。

 明治生まれの重太郎さんは三男だが、長男のような名前をしている。製塩業を営んだ一族は、専売制が導入されたあおりを食って廃業を迫られた。食い口にあふれた重太郎さんは〈自分から/さすらっていったのだろう〉とある。横浜の「ドヤ街」へ流れてデモクラシーの時代を生き、曾祖母と出会ったことが示唆されている。

きみから始まるすべてを
出現するどの親族からもはぐれたこの身
その血流にもきみを通じて革命の心を感じ
くらくざわめく内海の負の連鎖を断ち切って
きみから始まるすべてを祝福するこのぼくが
後ろに立っているのが見えないか

佐相憲一「革命の塩」抜粋

 重太郎さんは日本という国の主流から外された地域で、さらにその地域の経済的な拠点となった場所からも外れた地域に暮らす一族にいた。そしてさらに、その出自から、一族の中でも外れた位置づけにおかれていた。時代が近世から近代へと激変し、法や制度、社会の体系が激変する中でしわ寄せはより弱い立場の人達に集中する。

 沖縄でもそうだった。琉球国が日本国家に取りつぶされ、中央集権型の近代国民国家が形成されていく過程で庶民にしわ寄せがのしかかった。首里の士族や那覇の商人はともかく(彼らもかなりのあおりを食ったそうだが)、やんばるなどの田舎の農民は悲惨な状況におかれた。日々食べるものものなく家畜同様の暮らしを強いられ、男の子どもは糸満に売られて漁師となり、女の子どもは辻に売られて遊女となった。

 新潟の下小船津浜での暮らしがどのようなものだったのか、知らないが、さして変わらない苦しさがあったのだろうと想像する。
 山之口貘の詩に「喪のある景色」というのがある。

うしろを振りむくと
親である
親のうしろがその親である
その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに
親の親の親ばつかりが
むかしの奧へとつづいてゐる
まへを見ると
まへは子である
子のまへはその子である
その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに
子の子の子の子の子ばつかりが
空の彼方へ消えいるやうに
未來の涯へとつづいてゐる
こんな景色のなかに
神のバトンが落ちてゐる
血に染まつた地球が落ちてゐる

山之口貘「喪のある景色」/青空文庫

 親から子への命のリレーは美化されがちだ。しかし生活の中から、自身の暮らしや生き方から詩を生み出した貘の作品には、そういったステレオタイプは顔を出さない。かわりに描かれるのが〈血に染まった地球〉が落ちているという情景だ。

 親子の関係はデフォルトでたたえられるべきものではない。子を所有物のように扱う親がいるなかで「絆」という言葉が免罪符のようにつかわれている状況には、悲劇さえ思い浮かぶ。繰り返し報じられる、家族にまつわる事件をみていると「無償の愛」は親から子への愛情のことではなく、むしろ子から親(あるいは祖父母、曾祖父母)への愛情の深さだとも思える。一切の打算なく、どうしようもなく突き動かされる強い思いの有無は、親と子で非対称に思える。

 自らの出自に関わることではあるが、ルーツをたどる、祖先をたどる旅にも、そのようなどうしようもなく突き動かされる強い動機があるのだろう。「革命の塩」という詩に触れ、グーグルストリートビューで「下小船津浜」の素朴な町並みを画面越しに眺めながら、そんなことを考えさせられた。

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