マティーニ、浮かぶオリーブ
暗い木目調のバーカウンターで、マティーニに浮かぶオリーブがきらりと光る。
暗がりなバーで私は1人マティーニと対峙している。
カクテルグラスの細い足をそっと持ち、口に運ぶ。
そして一口飲む、今日はそう簡単には酔えないような気がした。
ネイルを確かめるとそれはやはり美しかったし、シルバーのリングとブレスレットはお互いに調和が取れている。
少し派手すぎるかもしれないと思ったこの深紅のワンピースドレスも、謙虚に私の引き立て役となっている。
セリーヌのキャンバストートから赤いリップを取り出して、ゆっくりと唇を赤く染めていく。
それらを完璧に熟す私は明らかにこの店内で最も妖艶だと思う。
私は自信を取り戻そうとしていた。
期せずして男が瞼裏に浮かび上がる。
私は下唇を強く噛んだ。なぜこの男を思い出さなければならないのだろうか。
それをとても悔しく思う。
男が描いた私、それは何かの抽象だとか象徴なんだとか、あるいは愛の形だとか。
男はそう力説したが、その私はあまりにも裸だったし、現実だった。
私を酷く傷つけたことに、男はあくまで鈍感であろうとした。
それに輪をかけて正当化しようとした。
男には、私の他に何人かいた。私はそのうちの1人を見たけれど、明らかに私の方が可憐で美しい。
そして私は気づいた。
男は馬鹿だと思ったし、私も馬鹿だと思った。私は問う。
何故、この男に頬を赤らめていたのだろうか。
何故、この男によって私は傷を負わなければならないのだろうか。
私が取るべき行動がそれらの問いの答えとして示された。
私は男を眼前から葬り、ここにきた。
精神的に、私は私から男を締め出さなければならない。
そのための何か、重要な現象がここに起きると直感したから。
マティーニに浮かぶオリーブを人差し指で突いてみる。
ぴくっと揺れたと思うと波紋がグラスに広がって、広がりきったらまた静止した。
その間もオリーブは休むことなくきらりと輝いている。
バーテンダーがスリーピースシェーカーを巧みに扱い、氷が砕け、カクテルがグラスに注がれる。
このバーに響く全ての音が心地よい。
肩に何やら手が添えられた。
空気がたちまち律された。
何かとても重大な事象が今ここを起点として始まったみたいだった。
振り向くと彼がいた。
彼は私の隣のハイスツールにまるで最初から決まっていたみたいに腰を下ろした。
「◯◯◯さん?」
と私に声をかける。
彼は私の顔を仔細に観察している。
そして、私は混乱した。
「✳︎✳︎✳︎です」
「あぁ、人違いでした。失礼」
というと、彼は耳に髪をかけながらハイスツールから立ち上がりくるりとまた戻っていってしまった。
一瞬後、私は彼を忘れることができなくなっていた。
私の肩におかれたその手の優しい感触までも忘れることはない。
衝撃的だった。
彼の立姿、顔を始めその所作までもがとても魅力的で、ある種の妖艶さを感じさせた。
男が私から消え去っていく音がする。
私はしばらく彼がさっていくのをただ呆然と眺めていた。
彼は内ポケットからスマートフォンを手に取ると、耳に当てどこか遠くの人と一言二言交わしている。
すると、私の方にまた歩を進め始めた。
彼の履くヒールブーツが心地よいリズムで私を震わせる。
心臓が脈打つのが全身から聞こえてくる。
彼は私の隣のハイスツールに再び腰を下ろすと、私に冠絶な微笑みを向けた。
「待ち合わせはいいんですか?」
「もう合わなくて良くなった。今会えたから」
彼はそういうと再び微笑む。
彼の微笑みは初夏の海風吹く浜辺を思わせる。
とても爽やかに微笑む人なのだ。
彼はバーテンダーに私と同じもの、つまりマティーニをオーダーした。
彼は逞しい手からは想像もできないほどに優しくカクテルグラスの細い足を持った。
そのまま私の持つカクテルグラスに軽く当て、酷く爽やかな音を暗がりの店内に優美に響かせた。
2人のマティーニに浮かぶ二つのオリーブはそれぞれに揺れている。
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