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苦手だったからこそ、プロになれた。

仕事にするなら「苦手なこと」を選ぶのはやめなさい、とよくいわれる。「苦手」なのだから不利に決まっている、というのがその“こころ”だが、ほんとうにそうだろうかと、ときどき思う。世の中には、苦手だからこそわかることもあるからだ。

ぼく自身でいえば、長いあいだ編集者として本をつくってきていて、自分の本も出しているせいか、はじめて会った人から「きっと子どものころから本好きで、読書家だったのでしょうね」などと訊かれることが多い。でも、実際のところはその逆だった。子どものころは文字を読むのがとにかく遅く、本は苦手な存在だった。

けっして誇張なんかじゃない。中学時代には、友人といっしょに歴史小説を読みはじめても、相手が20数巻すべてを読み終えたのに、ぼくはまだ2巻めに入ったばかり、なんてこともざらだった。もちろん本だけでなく、黒板の文字を読むのもおそい。授業時間内にノートに写しきれないことも少なくなかった(いまはかなり改善されたが、どうやら文字を絵として認識する傾向があるようで、意味の変換に時間がかかる。少し前まで、駅の販売機できっぷを買うのにも時間がかかったし(路線図から目的地と値段の文字を読み取るのに時間がかかる)、診断を受けたわけではないけれど、おそらく一種の失読症なのだと思う)。

そんな人が文章を扱う仕事にたずさわるなんて、まともに考えればうまくいきそうにない話だ。でも、実際のところは意外とそうでもなく、仕事はスムーズにやれている。それどころか「読むのが苦手だったこと」が役に立っているとすら感じることも少なくない。

なぜなら、文章を読むのがおっくうな人たちの立場に立てるからだ。

本は本好きだけが読むわけじゃない。なにかを学ぶために必要だからと、あまり積極的ではなく本を手にする人もいる。そんな人たちにとって、文章は重荷になりがちだ。読むことが苦手だったぼくは、その目線に近いところで原稿を扱うことができる。

実際に、いまぼくが文章の書きかたなどについて講座をもたせてもらって話していることのほどんどは、まさに「その目線」から生まれている。理解しやすい文章の成り立ちの考察や、「前置き型は避けたほうがいい」「図ありきの文章にしない」「起承転結をやめる」といった理解しやすくするための数々のルールなどは、ほぼすべて「あのころのぼくでも読める」ことをめざすなかで導き出されたものだ。もしぼくが文章を読むのが得意だったら、きっとそこに課題があることにすら気づかなかっただろう。

ここまで書いてきたことは、あくまでぼく個人の経験や感慨にもとづいた話だが、似たようなことは、ほかの仕事にもあるんじゃないかと想像する。かゆいところに手が届くような接客は、ただ話すのがうまいだけの人には難しいだろうし、人の上に立つのが好きだからといって名リーダーになれるわけじゃない。むしろ、リーダーに不向きだと自覚した人が、リーダーではない目線で工夫して、リーダーとして堅実な結果を出していたりする。

苦手なことやコンプレックスをもっていることには、だれしもふたをして、見ないように、見せないようにしてしまいがちだ。でも、じつはその一見ネガティブで、無価値に思えるものにこそ、だれかをほんとうの意味で手助けできる手がかりがあるのではないか。

足を骨折したときに街にある段差の多さに気づくように、苦手だからこそ見えることがある。そこを掘り下げていくのは、たしかに勇気も根気も必要だけれど、つきつめた先には意外とプロとしての道が広がっていたりする。


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