ハッピーエンドへ歩く【短編小説】【1100文字】
立ち止まっている間に世界は以前にも増してスピードを上げて回っている。
留学から帰ってきたあの人は甘ったるいバニラの香りがした。駅から目的地までの途中で、日本は狭いと言うので、今日は人が多いねと返すと、そういうことじゃないと言われてしまった。
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元彼が忘れられないと嘆いていたあの子のSNSを見た。投稿内容が元彼のために作った手料理の写真から、今彼が料理をする動画になった。誰かのいいね〜!というコメントに今彼はとにかく一緒にいて楽だと返していた。彼氏のためなら何でもする!と言っていたのは別の子だったかもしれない。
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順風満帆に見えていた女優は、誹謗中傷で自殺した。人類が自分と違う存在を許容できる日なんて一生訪れないと思った。何気なく見ていた地上波で彼女のデビュー作が放映されていた。哀悼の意を込めて消した。もう彼女を誰の目にも晒さないであげてほしかった。
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辞める前の上司の言葉を思い出す。「この程度で辞めるなら、正社員は無理なんじゃないかな」半笑いでチラチラと時計の針を気にしている上司を私はうつろな目で捉えていた。震える手で書いた退職届は上司の扇となってパタパタ揺れた。
その後は、どのように帰ったのかとんと思い出せない。目に汗が染みた。それは塩分を含んだ塩辛い汗だったと思う。ひどい目の痛みで駅から自宅までの坂にしゃがみこんでいるところだと気がついた。照りつける暑さに吐き気を催して、肩の荷を下すことさえも憚れた。
平日の15時は人の往来が少ない。コミュニティに所属している大半の人たちが拘束されている時間だからだ。辺りを見渡しても、何も誰もない。人以外の音が虚しく響くだけだった。何かが颯爽と私を追い抜いた。5歳くらいだろうか、それは己が身だけの男の子だった。男の子はそのまま10数メートル先で前のめりに倒れた。
私はひどく動揺した。男の子はリングにいて私はリングの外でそれを見ている。私はそこへは行けない。もう限界なんだ。荷物だけじゃない、足も重たいの。それでも私は優しくなりたいんだよ。だから代わりに立ち上がり名一杯に叫んだ。
「がんばれー!」
君は起き上がれ。起き上がれるよ。すると、男の子はゆっくりと立ち上がって、こちらに振り返った。
「ありがとう!」
そう言って、男の子はまた走り出した。私はあまりの眩しさに目眩がした。すぐに駆けつけられなかった申し訳なさも。「頑張れ」などという軽い言葉の恥ずかしさも。不幸ぶるときだけ元彼を思いだしてしまう浅はかさも。狭い世界で傷ついてしまうちっぽけさも。仕方ないよねと笑ってゆけるようになるだろう。私は帰路へ一歩踏み出した。私たちの進む先がハッピーエンドであるようにと。