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私と本、私と祖父、私と母 | 「エレクトラ・コンプレックス」について考えてみた

こんばんは、みつまめです。

子どもたちがお風呂に入っている、つかの間の休息タイム。
ぼんやり寝転んでいたら、母方の祖父の事がふと頭に浮かびました。
本について考えていたからかもしれません。

祖父は本が好きな人でした。
書斎にうず高く積まれた本。
ちょっとほこりっぽい中に漂う、墨の香り。
飴色になった文机にちんまり座る祖父の姿。
70歳過ぎてから2度めの大学入学を果たし、史上最高齢で卒業してしまうような人でした。

祖父はもう10年も前に亡くなっていて、さらに家は建て替え済。
もうあの景色は永遠に見られないというのが信じられないくらい、今でも鮮明に目に浮かびます。

祖父のことを考えていたら、ふと「私は祖父のお陰で、父との関係性をこじらせなかったのでは?」と思いつきました。
理由はわからないけど、急にひらめいてしまった。

今回は亡き祖父との関係を振り返りながら考えてみたいと思います。


先に進む前の注意点

徒然問わず語り系の内容です。ほのぼのエッセイ風に始まりますが、結論は特にほのぼのではないです。
お役に立つような内容も殆どありません。

あと、自分の振り返り用なので思い出した流れで書いています。
本来は構成上削ったほうが良いような文章も、そのまま残してあります。
そのため、「おはなし」としても多分読みにくいです。
それでもよろしければお進みください。

また、「エレクトラ・コンプレックス」という心理学用語が出てきます。
素人なりに調べてはいますが、解釈の仕方が間違っているかもしれません。
その辺もご承知おきください。


私が本好きになった理由

私は根っからの本好き。
大学の専攻は日本古典文学。
中学、高校の教員免許と合わせて、実は学校図書館司書教諭の資格も取得しました。
そして書店も大好きで、10年近く出版業界で働いていました。

本好きになったのは、母の教育のお陰です。
私の母は元幼稚園教諭で、かなりたくさん読み聞かせをしてもらっていたようです。
家で絵本や紙芝居を読んでもらっている記憶が、朧げながらあります。

幼稚園に入るか入らないか位の時期から、毎週の休日には近所の小さな図書館に行くのがお決まりでした。
幼児期は入口近くの小さな絵本コーナーで。
小学生になったら、2階の児童書コーナーで。
たまに3階のコミックコーナーや、地図・郷土資料コーナーを覗いてみて。
小学校高学年くらいまで、図書館通いの習慣は続いていました。

「小さいモモちゃん」、「おばけちゃん」シリーズなどは青い鳥文庫版で家に揃っていました。
母が松谷みよ子さんの児童書が好きだったんだと思います。
読み聞かせもしてもらったし、自分でも繰り返し読みました。
今でもフレーズがぱっと思い浮かんでしまう位に読み込むくらい好きでした。

私と祖父

すっかり本の虫になった私は、母方の祖父の家に行くたびに何か読むようになりました。
母や伯父が読んでいた児童書が結構たくさん残っていて、祖父母の家には児童書の本棚がありました。
階段を登ってすぐの、少しだけ薄暗くて秘密基地みたいな場所。
そして、児童書の本棚の奥には祖父の書斎がありました。

冒頭に書いたように、祖父の書斎は本で埋まっていました。
祖父の書斎は入り難い雰囲気もありましたが、読んだことのない本の山はとても神秘的で、魅力的でした。
「みつまめにはまだ難しいよ」「重たい本が落ちてきたらいけないから、触っちゃだめだよ」
そんな事を言われたの本の虫は、ますます興味を惹かれます。
本に触らせてもらえないなら、と祖父に色んな本のお話をねだりました。
祖父にお話を聞けるのは夕食中や、お風呂タイム、寝る前のお布団の中。
祖父母宅に泊まりに行って、祖父のお話を聞く時間がとても楽しかったです。

私の本好きは母によって土台が作られ、母方の祖父によって強化されたのだと思います。

私と父

以前少しだけ書いたのですが、父は根っからのアウトドア派。
昔からあまり私と話が合いません。笑

さらにとても真面目で頑固。
実直な職人気質と言ったら良いのか。典型的な昭和のオヤジと言ったらいいのか。
頻繁ではないけど、叱られる時はかなりキツめに叱られるので、幼少期はとても怖かった記憶があります。
父に甘えるなんて、物心ついた頃には記憶にありません。

でも今は、父に対して怖いとか、話しづらいとか、ネガティブな感情は生まれなくなりました。
大人になってから、父はかなり頑張っていたんだということに気づき、父の魅力(?)を見直した感じです。

そして、孫(私の息子たち)に対する不器用な可愛がり方を見ていると、多分子どもの扱い方がよく分からなかったんだろうなぁ、という気がしています。

「エレクトラ・コンプレックス」とは

唐突に精神分析に関する用語が出てきましたが、このあとに繋がるのでよろしければお付き合いください。

「エレクトラ・コンプレックス」とは、すごく雑に言うと、娘が父親との関係性の中で、母親に対して抱く感情の諸問題(?)です。

父親が好きで、認められたくて。
だから、父親に好かれている母親に嫉妬心を抱く。
また、自分は「女」だから劣っている。父親と同じ「男」になりたかった。
そのような気持ちを抱くようです。

多分「エディプス・コンプレックス」の方が用語としては有名な気がします。
というか、エレクトラ・コンプレックスを提唱したはずのフロイトが、その概念を否定しているようで。
そもそもそれ自体が「男性的な発想」として批判も多いようです。

まぁ、確かに元々"持ってない"からなぁ。
あんな場所にあって邪魔じゃないのかな?としか思わない。笑

劣等感に関しては、エレクトラ・コンプレックスでは説明できない気がします。
どっちかというと「ジェンダー」(社会的な性)の方の問題ではないかと。

ただ、今回の話の説明が出来そうな概念ではあるので、ここから先は「エレクトラ・コンプレックスに沿って考えてみます。

なお、下記記事がかなりわかりやすかったです。
具体的にどのような事が起きるのか、大分噛み砕いて柔らかい表現になっています。
ご興味があれば、読んでみてください。

参考
すぐに役立つ心理学講座
※すべてカウンセラー みずがきひろみ氏の記事です。

どうして女性に生まれてきたの?(1)~この生き辛さはエレクトラ・コンプレックス?~

どうして女性に生まれてきたの?(2)~「弱い男は許せない!!!」~

どうして女性に生まれてきたの?(3)~「女性性を受け取る」ってどういうこと?~

どうして女性に生まれてきたの?(4)~ラスボスはやっぱり「母」~


詳しく知りたい方向け引用

およそ3歳から6歳の女児は父親に向けて性愛を向けると共に、同性の母親に対して敵意を向けるとされています。そのため、女児の心の中には、養育者である母親への愛着と敵意が同時に起こり、葛藤を生んでしまいます。
エレクトラコンプレックスはこの葛藤のことを表す用語です。

エレクトラコンプレックスとは

女児は男根(ペニス)が存在しないため、男根への憧れ(男根羨望)として父親を性的対象をしてみなすと共に、男根(ペニス)を持たない存在として産んだ母親を責める気持ちと男根(ペニス)が無いことの劣等感を抱きます。
また、去勢不安という葛藤解消のきっかけが生じないため、いつまでも父親を愛し、母親に敵意を向ける葛藤状態が続きやすいとも言われています。

エレクトラコンプレックスとは


父は「男の子」が欲しかった?

母から聞いたことがあります。

「お父さんは男の子が欲しかったんだって」

なんの話の流れだったのか、いつの事だったのかは記憶がありません。
その時私がなにを思ったのかも、記憶にない。
でも、この言葉だけをはっきり覚えているということは、多分ショックだったんだろうなぁ。

ただし、父によって「エレクトラ・コンプレックス」が強化されたという事は、なかったように思います。
私は「女の子らしく」振る舞うようにしつけられたことはなかったし、「男の子のように」育てられたようなこともありません。
習い事も進路も、性別を理由に何か言われたことはありません。
弟と別け隔てなく接してくれたと思っています。

唯一「女の子なんだから」と言われたのは、帰りが遅い時くらい。
弟よりかなりキツめに叱られていました。
でも、多分女の子のいる家庭なら普通のことではないかと思います。
(流石に部活してる高校生に門限18時は早すぎて、随分と反発していましたが…笑)

そして、父が望んだ男の子(弟)は、割とおとなしいタイプでした。
父が想像する「男の子」像とは、多分違ったんだろうなぁ。
父が私も弟も別け隔てなく接してくれたのは、そんな理由もあったのかもしれません。

冒頭に書いたように、父は子どもの扱い方がよく分からなかったからこそ「男の子が欲しかった」(自分と同じ性別で、まだ理解が出来るから)ということだったのかな、と思います。


なお弟と父は、今でも明らかに反りが合いません。
特に弟の方が、父を毛嫌いしている感じ。
弟のエディプス・コンプレックスのほうが深刻な気がします。

祖父から大切にされた思い出が「エレクトラ・コンプレックス」を軽くしたのかも

私は祖父に大切にされている実感がありましたし、話を聞いてもらえる、認めてもらえている、という感じがありました。

特に私が大学で専攻していた内容や興味を惹かれる内容について、祖父はかなり造詣が深くて。
大学に入ってから祖父母宅に遊びに行くときは、大学で面白いと感じた講義のレジュメやノートを持参。
講義を受けた事について自分なりに話し、祖父の見解を聞くという…。
祖父も分からないと「あの本探して調べておく、続きは後で話そう」なんて書斎に引っ込んで、話が中断したりして。笑

昼食後やおやつ後のくつろぎタイムに、延々と大学の講義みたいな話をしていました。
母や祖母は呆れつつも「おじいちゃんはみつまめと話しているときが一番活き活きしてる」と言っていました。

以前、高校生の頃の「ジェンダー観」に関する内容を書きました。
大学時代はよりこじらせていまして。
「奔放な」行動を取る割に、「男なんて、特に私なんかを好きになる人は信用できない」と心の底では思っているという…。

そんなこじらせまくっていた学生時代でも、祖父と話をしている時間は素直で、心の底から楽しく、くつろいだ気持ちでいられました。

祖父を「自分を負かしてくれる猛者」と思っていたのか。
それとも祖父を「男性」と思っていなかったのか。
いずれにしても私が「認められ、愛されている私」を素直に受け入れられていたことは確かです。

「自分を負かしてくれる猛者」についての引用

もともとは「お父さんが大好き」な彼女たちですから本当は「男性が大好き」で、自分に無いものをもっている男性を、まるで偶像を崇拝するように崇めているフシがあって、本音は、「強い男性を頼り、甘えたい」のです。ところが「頑張りすぎ」で「負けず嫌い」の彼女たちの目には、恋愛対象になりうる自分を負かしてくれる猛者は見当たらず、いきおい、年齢の離れたオジさま(不倫が多い)か、大化けするかヘタレで終わるか一攫千金狙いの天才肌の一匹狼とのムズカシイ恋愛になりがちです。

どうして女性に生まれてきたの?(2)~「弱い男は許せない!!!」

(20歳前後の頃に15歳年上の男性と一瞬付き合ったことはありますが、不倫ではない…と思う。多分。本当に一瞬だったから分からないけど。しかし20歳の小娘と関係を持つ30代半ば…ロクなやつじゃないですね。笑)

もしかして母も「男になりたい女」だった?

「エレクトラ・コンプレックス」のラスボス(?)は、父親でなく母親です。
大好きな父親に認められたい。「女の子だから」と劣等感を持つ。
父に愛され「女性」なのに認められている存在である母親。
娘が母に抱く感情は「嫉妬心」です。

とはいえ私の感情の動きは「エレクトラ・コンプレックス」だけでは説明が出来ない部分があり、冒頭で紹介したような記事の内容だけで解決出来そうもありません。
そのため、ひとまずラスボスについては、今回は一旦置いておきます。

ところで、母が私に語った自身の経験や、考え方について検討してみると、母も「エレクトラ・コンプレックス」が比較的強めで、私と同じ「男になりたい女」だったのではないか、という気がしてきました。

私が生まれたのは、男女雇用機会均等法が施行された直後です。
就職しても、結婚や妊娠を機に退職する女性が一般的だった時代でした。
母は短大卒で幼稚園教諭として勤めた後、結婚をきっかけに"寿退職"。
その後一般企業のOLとして勤め、私の妊娠を機に退職したそうです。
しばらく専業主婦で、長子(私)が小学生になってからパートで社会復帰。
しばらく近所の小売店などで働いた後、私が中学生の頃にパートで幼稚園教諭に復帰し、扶養内で定年まで働き続けました。
母の世代では、おそらくスタンダードな働き方だと思います。

私が中学生〜高校生の頃は母の愚痴聞き役をする事が多く、その時に過去の母の話をよく聞いていました。
また、私の進路の話になる時期には、「手に職つけた方がいい」「いざという時のために、女性も収入があったほうがいい」と繰り返し言われ続けていました。
当時から「お母さんは今の生活に不満なんだ。制約なく、仕事を自由にしたいんだ」という印象を持っていました。

そして母から「幼稚園教諭の世界は女しかいない、狭い世界。仕事は好きだったけど、狭い世界に嫌気が差したから結婚を理由にして退職した」といった話も聞きました。 
私が小学生になるまでは専業主婦でしたが、積極的にママ友付き合いをしていた雰囲気もなく。
私と同じく「女社会が苦手」な人でもありそう。

そもそもの話ですが、私の名前は割と中性的です。
名付けは母。
昔は名前だけでよく男の子と間違えられていました。(現代でも女の子には珍しいかも)

そして、いかにも女児が好むような服は着せてもらえなかった気がします。
スカートを禁じられるとか、ピンクを禁じられる、みたいなことはなかったですが、シンプルで地味めな服が多かったというか。
私自身はザ・女の子な格好はしたかったようで。
七五三か何かだったか、同い年のいとこがレースのふわふわなドレスを着せてもらっていて、羨ましくて悔しかった記憶があります。

母は「性別に縛られないように育てよう(何故なら、自分が性別に苦しめられたから)」という思いが強かったのかもしれません。
その思いを、今で言うHSCだった私は過剰に受け取り、「女の子らしい服を着たい」「本当はもっと女の子っぽい名前が良かった」といった思いを抑圧し、「私は女の子らしい事を望んではいけない。何故なら女の子の方が劣っているから」という考え方をより強化してしまったような気がしています。

とはいえ、私が幼少期を過ごした昭和最後〜平成初期という、時代の過渡期であった頃。
そんな時代でも、「女の子だから○○しなさい」というしつけ、育てられ方をしなかった事についてはとても感謝しています。
もし父が、明らかに弟を可愛がっていたら。
もし母が私を「女の子らしく」しつけていたら。

私はもっと深く傷つき、今よりももっと生きづらかったのではないかと思います。

少しずつ輪郭が見えてきた私の「生きづらさ」

キーワードだけは見えていた、私の生きづらさの根本。
少しずつではありますが、ぼんやりと輪郭が見えてきたような気がしています。

核心に迫れている感じはまだないけど、次に掘り下げたほうがよさそうなところが何となくみえてきました。

たぶん次に取り組むあたりは

・祖父-母の関係性について、「孫娘」として抱く感情
・母-弟の関係性について、「長子」「姉」として抱く感情

このへんかと。
何となくキーワードが見えてる。

時間はかなりかかりますが、少しずつ自分で取り組んでみようと思います。


*****

徒然問わず語りシリーズ


ジェンダー関連

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