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輪をつくる、幸せにする。「僕らしい医師のカタチ」

同じ職業についても、働き方や仕事内容は人それぞれですよね? オフィスで隣に座っているあの人と自分が同じなのは、名刺にある肩書だけ。

人と同じ「職業」の中で、どのように自分だけの強みを表現し、志を体現していくか、模索している方も多いのではないでしょうか。

今回は、外科医として数々の手術経験を経て、現在は地域の健康を見守る訪問診療医としてご活躍される宮地紘樹(みやちひろき)さんにお話しを伺いました。

親御さんの影響を受け選んだ「医師」という道で、人生における自分の軸が定まった瞬間や、強みを活かして働けるようになるまでの日々を語っていただきました。

宮地 紘樹(みやち ひろき)1979年京都生まれ。居酒屋バイトと海外バックパッカーを経て2004年に医師となる。10年間外科医として武者修行したのち病院に通えない方を自宅で自分らしく過ごせるようサポートする訪問診療医に転身。現在は世界でも最も高齢化を迎える日本の現状を解決すべく世界各国に医療視察を行い、知見交流から新しい医療の形を模索している。

迷うことなく医師、外科医の道へ突き進んだ20代

ーー本日はよろしくお願いします。現在、訪問診療医としてご活躍されている宮地さん。まずは、医師になろうと思ったきっかけを教えてください。

宮地:父が医者で、物心がついたときから自分も医者になるんだと思って過ごしてきました。今ほど、自分らしさや多様性が注目される時代でもなかったこともあり、医者というある意味決められた道に進むことには何の疑問も抱かなかったですね。

医学部生の頃も、「国家試験受かれば医者になれるし! 」くらいの気持ちだったので、将来について悩んだことはありませんでした。

ーー迷いなく進んだ医師の道、実際になってみていかがでしたか?

宮地:外科医になり、年間100件~200件の手術をこなしてバリバリ働いていました。忙しいと当直で2日続けて徹夜とかもあって。もちろん体力的にはしんどいんですけど、同期と切磋琢磨しながら経験を積んでスキルを磨いくことが楽しくて。新人時代は夢中で駆け抜けてましたね。

人生の岐路に立ち、「生き方」に苦悩した日々...

ーー順調に医師としてのキャリアを積まれていったのですね!

宮地:外科医として5年ほどキャリアを積んだ後は、現場の最前線を離れ大学病院に異動しました。医療業界には医局制度があり、ほとんどの医師は医局に所属していました。

ドラマでもよく見ますよね。教授がトップで、その下が助教授で......みたいな、いわゆる大企業のようなピラミッド型の組織。まさにあれです(笑)。医者になって一人前かなと思い始めた頃に、大学病院への人事異動が一般的で。そこからが大変でしたね。

ーーと、言いますと......?

宮地:大学病院では、医局という大きな組織の中で一番下っ端です。執刀医として手術台に立たせてもらうことはほとんどなくなり、代わりに任されたのが術後対応や雑務作業でした。

病棟の緊急対応や研究に使う手術データや記録報告などをひたすらパソコンに打ち込む日々。朝6時くらいから深夜1時くらいまで働いてもほとんど給料をもらえなかったので、別の病院に当直のアルバイトに行き、生計を立てていました。

大学病院ならではの希少な症例を経験できる反面ついこの間まで多くの患者さんの命を手術で救っていると思っていた僕にとっては、徐々にやりがいを感じられないようになり......。「俺たち何やってるんだろうね」と、深夜にカップラーメンすすりながら同僚と話してましたね。

一方、じゃあすぐに医局を飛び出して生活を変えられるのかといったら、それも難しかった。その頃医局に所属しない医者なんてほとんどいませんでしたし、変人扱いですから。当時はすでに結婚して子供もいたので、いずれ収入も安定する年功序列の医局という大きな組織を飛び出してまで自分らしく働く選択は、すぐにできませんでした。

ーー「安定した生活」と「自分らしく働きたい気持ち」は、時に相反するものですよね。

宮地:ちょうどSNSが普及してきて同世代がキラキラ楽しそうに働いている様子も見ていたので、自分らしく働けていない自分への焦りも募ってました。毎日まだ空が薄暗い早朝に出勤し、深夜に帰宅。子供の面倒を見る暇もない......。「本当にこのままでいいのか? 自分らしい生き方ってなんだろう......? 」と悶々としてましたね。

そんなとき、たまたまある本を手に取ったんです。日本の医療を海外にも広めようと活動している病院が紹介されていて。発展途上国に日本の医療を導入して現地の人々の命を救ったり、インフラや衛生面に不安のある地域に病院を建てたり。魅力的な事業内容に心が動きました。

「これだ! 」と、すぐにあとがきにあった連絡先に問い合わせました。学生時代は海外を旅していたこともありずっと海外勤務に興味があったのと、やりがいを感じられる仕事や働き方がしたいと思っていた時期がぴったり重なり、転職を決意。教授に辞表を出しました。それから転職先での勤務を開始するまで半年間の猶予を作つくり家族で世界一周する計画もして、自分の殻を破れた瞬間でしたね。

ーー素敵です......! でも、かなり勇気のいる決断だったのではないでしょうか。

宮地:今まで自分の人生に疑問を抱いたり迷ったりすることがなかった僕にとって、初めて「生き方」に悩んだ経験でした。敷かれたレールを外れることや人と違う道を選ぶことが怖かった。だからこそすぐに決断することはできませんでしたが、悶々と悩んだ時間が糧になっていると思います。

僕の場合は、今の生活を変えたい気持ちが強まった結果、選択できた道。決断が早ければ良いわけでも、悩むことが悪いわけでもない。きっと人それぞれにベストタイミングがあると思っています。

ーー悩んだからこそ、納得のいく選択ができたのですね。やりたかった仕事への転職、家族で世界一周など理想に向かって道が拓けて良かったです!

宮地:実は......。あるできごとがきっかけで、そのどちらも断念したんです。

ーーえっ!? どういうことでしょう?

妻の闘病生活が気づかせてくれた、何気ない日常にある宝物

宮地:妻の病気が発覚したんです。血液の癌になってしまって。すぐに僕の勤め先だった大学病院に入院して抗がん剤治療を始めました。

妻の側にできるだけいられるようにと、辞表を出した教授に大学病院に残留させてもらいたいと頭を下げ、転職を断念。勤務中は妻の看病もし、夕方には仕事を切り上げ子どもたちを幼稚園に迎えに行く。帰宅後は夕飯をつくってお風呂に入れて寝かせる。疲れて自分もそのまま一緒に寝てしまうこともありましたが、深夜に起きて明日の夕飯をつくり置きする......。

毎日が必死でしたね。計画していた世界一周も、もちろん断念。生活は一変しました。

ーーそうだったんですね......。

宮地:妻が入院するまでは「大黒柱として家族を養ってる俺、すごい! 」と、どこか自惚れている自分がいたんです。でも実際は、妻が健康でサポートしてくれていたから仕事に打ち込めていたのだと痛感しましたね......。それから妻の病気はほとんど奇跡的と言っていいくらい、回復して。今は元気に暮らせています。

ーーわぁ......! よかったです......!! ご自身の生き方や考え方に、かなり影響を与える出来事だったのではないでしょうか。

宮地:人生をどう過ごすか、考え方が変わりました。妻が病気になるまでは、当たり前に続く毎日が、この先も当たり前にやってくると思っていて。でも、人生はいつなにが起こるかわからない。やりたくないことを我慢して続けて、やりたいことを5年後10年後に先延ばしにしていてはだめだと、胸に強く刻まれました。

妻の闘病がきっかけで、曖昧だった人生の目的が明確になりました。僕にとってなにより大切なのは、家族が健康で元気にいてくれること。ご飯がおいしいとか、家族と笑って過ごす時間とか、何気ない日常が一番の幸せです。ブレない幸せの軸が定まってからは、仕事漬けの毎日から家族との時間を多く持つ働き方に切り替えようと決意しました。

ーーその後、訪問診療の医師になられたのでしょうか。

宮地:そうですね。訪問診療は、特別すごくやりたかったわけではないですが、夜勤もなく働き方の自由度が高いので家族との時間が確保しやすかったので選びました。転職先のクリニックが海外展開予定だったのも魅力でしたね。

選択って、優先順位をつけることだと思うんです。仕事、家族、趣味......やりたいことはたくさんあるけど、じゃあ順位をつけたら何が一番何だろうって。僕が実際におこなった人生における優先順位のつけ方は、理想の人生を送っている状態(「家族と笑顔で充実した時間を過ごしている」「健康で力に溢れている」)などを20個ほど書き出し、その中から最も優先順位が高い5つを選抜してリストにしました。今でも定期的に見直したり、持ち歩くようにしてます。

リストを作成してからは、自分にとって大切なものを見失いずらくなりました。家族が健康でいてくれることや、人と比べずにやりたいことをやる生き方を、迷わず選択できるようになりました。迷ったときは、リストを見返してみる。何をどう選べばいいのかわからない......。と頭を抱えて悩む時間が少なくなり、納得した時間を過ごしやすくなった思っています。

“人と人を繋げる”自分らしい「医師」の姿。強みが輝く働き方

ーーでは、現在は充実した医師としてのキャリアを歩まれているのですね!

宮地:最近は、自分らしい働き方も取り入れられるようになりました。病院にいた頃は、医者がピラミッドの頂点にいる感じで指示出しさえすれば良かったのですが、訪問診療ではそうはいきません。ご自宅で治療を進める患者さんひとりに対して、医師や看護師が数名のチームをつくって仕事を進めていきます。医者ひとりではなにもできない。チームワークが機能しないと良い医療は提供できません。

幸運にも僕の強みは、人と人を繋げる力でした。別に誰に頼まれたわけでもないのですが、チームメンバーが責任感を持って仕事に取り組んでくれるよう工夫をしたり、モチベーションを上げる声かけをしたり。一緒に働く仲間がより楽しく、やりがいを持って働ける方法を模索してチャレンジしていくのが楽しくて。

僕は、病院でピラミッドの頂点にいるより、周りの人たちと肩を並べて輪をつくって、協力しながら仕事を進めるほうが性に合ってるようです(笑)。医師としては珍しいタイプかもしれませんが、病院にいた頃よりも自分らしさや強みを発揮した働き方ができているので、手術をバリバリこなしていた頃とはまた違った充実感がありますね。

ーー同じ「医師」という職業でも働き方や仕事内容もずいぶん変化しましたね!

宮地:外科医のときは、手術台で治療をすることだけが患者さんにできる僕の全てでした。訪問診療医になってからは患者さんが暮らす地域で、いつまでも生き生きと生活ができるように心身ともにサポートすることが仕事になりました。自分も、家族も、一緒に働く人も、患者さんも豊かになる医療現場をつくっていく。

そのために、医療現場にリモートワークを導入したり、都心の医師と地方の患者さんを繋ぐサービスをつくることも考えています。自分らしさは、自分次第で切り拓ける。働き方の多様性が注目される時代、医師として自分らしい働き方への挑戦は続いていきます!


*編集後記*
同じ「医師」という職業でも、志や目標も人それぞれ。働きながら変化する自分の気持ちに蓋をせず、起きた出来事ひとつひとつを真摯に受け止め、ご自身の強みを活かした働き方を実現している宮地さんから「自分にとっての幸せ」を軸に生きていく大切さを学びました。周りを巻き込みながら突き進んでいく宮地さん挑戦が楽しみです!


執筆:貝津美里(みさとん)

編集: カタヤマハルカ

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