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好きな服を着ること。自分を知ること。

3月の中旬頃、私はひとり東京へ出た。いつもながら半年に一回の通院がメインの目的だったのだが、これまたいつも通りにそれはただのダシで、通院にかこつけて行きたかった・見たかったあれこれを存分に旅程に詰め込んだ“Just for fun”な旅となった。

今回足を運んだのは私のかつてのHOME、つまり東京の西側エリア。大学時代に小田急ユーザーだった私の一番の聖地は何と言っても下北沢で、就職した後の一時期をのぞいて、ほぼずっと、かれこれ15年近く通い続けている。


だいすき下北沢

下北沢の魅力は、一にも二にも「歩行者優先」なところだ。道幅が激狭なので、大きな車はおろかバイクでさえも嫌厭される。私が通い始めたころはまだまだ再開発初期で、かつての闇市的なエリアが駅近くに残っており、極小の空間にお客同士がぴったりとくっつく距離で飲み食いする様子は、なんとも怪しげだった。一方で、いつかあそこで一杯ひっかけることが私の密かな夢でもあった。

永遠に続くかと思われた下北沢再開発も、この数年でぐっと形になってきて、かつての面影がひとつふたつ、みっつよっつと減ってきている。
変わることがこの小さなまちの(そして都会の)宿命であるから、そのことに粘着質な感傷を抱くことはない。だけど、やっぱりちょっと寂しいというのが本音でもある。新宿や渋谷では絶対にやっていけなさそうな個性の効いた店や、都会の中では珍しく、ゆっくり歩くことを許容されてる公道、何もかもが「王道」なファッションビルとは対照的に、時代もサイズもデザインも自在にセレクトし放題の下北ファッション…。再開発後の下北沢には、こういった私の好きだったカルチャーというか、空気というか、下北のスピリットみたいなものが次第に薄れていってしまっている感が否めない。

ちびにも優しい下北ファッション

田舎に移住してきた私の目下の課題は、仕事でも住むところでもなく、「着るもの」だった。もちろん仕事も住むところもそれなりに苦労した(している)が、未だ少しも解決の糸口を見つけられずにいるのが「ファッション問題」である。
そもそも私は体が小さい。身長152cmの骨格タイプストレートで、ちびで骨太な体型だ。小さいので丈感は何においても命なのだが、加えてちょうどいい丈×骨格ストレートに合うデザイン(Vネック・ハイウエストなど)と条件を増やしていくうちに、たちまち田舎で買える服はなくなっていく。都会にいるときでさえ「日本人女性の平均身長158cm+」をターゲットとしたファッションビルでは買うものがなかったのに、さらに服屋の少ない田舎ではお手上げ状態だ。

そういった意味でも、下北沢は私にとって救世主的存在だったと言える。体型マイノリティーの私に合う、いつかの時代のどこかの国で着られた服。大正時代のモダン着物なんてまさにそうで、現代よりも低い当時の平均身長に合わせてあるため、かえって私にぴったりだったりする。さらに嬉しいことに、大量に消費されることを目的とされてつくられた服と違い、流通量の少ない古着は他人と被ることが少ない。かつて航空会社で働いていたとき、とある先輩が「このモデルさんと同じものを上から下まで下さい」と、ファッションビル誌持参で服を買っているという話を聞いたことがあるが、そもそもそうゆうところで買う服がない自分の体型を、そのときばかりはラッキーに思えた。

制服好き日本人の、私服ダサい問題。

服装に関して、私たち日本人は異様なまでに統制されている。制服なんてその権化だし、下手したら幼稚園の4・5歳から制服生活を強いられる。英語にしてみるとよく分かるが、制服とはつまり「ユニフォーム」、ひとつものにまとめて統率しやすくするもの、という意味合いを持っている(私的感覚)。
とは言え制服のぜんぶを悪いとは思っているわけではない。何を隠そう私自身もファーストキャリアに航空会社を選び、制服業界ど真ん中にいた人間である。何の影響か知らないが、日本人の制服フェティシズムは文化遺産並みなので、「あの制服が着たい!」が動機で航空業界を目指す人は、今も昔も少なくない。
確かに航空業界のユニフォームはかっこいい。なんたってたっかい金払って有名デザイナーにデザインしてもらているし、しかもその制服を着た社員が一番の広告塔になるのだ。会社も力を入れるのは当たり前。しかし、ここで私はみなさんにひとつ、残酷な現実をお伝えしなければならない。
ずばり、航空業界の人間はたいていが「制服脱いだら私服がダサい」という事実である。

たまたま私のまわりが、という話かもしれないが、制服を脱いだ後の皆々様の私服が「激ダサワロタ」なのである。通勤途中に市民の皆様の目に触れて恥ずかしくないようにと、スカート丈の規定やジーンズ・サンダルはNG、のような中学生じみたレギュレーションがあるからかもしれないが、はっきり言ってそういう域を超えている。しっかりスカート丈守りつつ、それぞれの体型や肌色に合ったデザインのものを選べばそんなことは起こり得ないのだが、実際は多くの社員がただルールを守っただけの、自分にはちっとも合っていないヘンテコなファッションで通勤しているのだ。そっちの方がよっぽど企業イメージに関わるし、いっそのこと短い丈よりダサい服着てる社員にペナルティを出すべきだろうと、私は当時から思っているほどである。

TPO守ったってダサけりゃ意味ない。大切なのは「自分に似合う」を知っているか。

ここで思うのは、いかに私たちが「自分に何が合うのか」「何が必要なのか」を “自分で” 考えてこなかったか、ということだ。先の「上から下まで〇nC〇n先輩」が典型的な例であるように、誰かが良いよと言った、世間で流行っている服をなんとなく着ているのだ。百歩譲って似合っていればそれでもいい。しかし顔と同様ひとつとして同じものはない体型において、果たして万人に似合うファッションなんてものが存在するのだろうか。自分のこと、無視してない?自分の個性、分かってなくない?と、そうゆう‟着方”をしている人をみると、ついつい思ってしまう。惰性でネクタイ締めてとりあえずジャケット来ているサラリーマンとかは、もうその悪例だろう。

15社以上転職してきた私にとって、服装のTPOは割といつでも気にかけるべきトピックだった。業界も職種もバラバラでやってきたので、ひとつ前の仕事服が、いまの職種ではまったく活かせないなんてこともよくある。大人なので「世間のこと無視して、好きなもの着ちゃえよ!」というエネジェティックさはもうないが、それでもTPOを守りつつ個性をつぶさずに服を着ることは可能だと思っている。というか、しなければならないと思っている。なぜなら「毎日着る服」というのが、自分のポリシーを表明する最も手軽かつ重要な要素だからだ。もちろん、現場仕事だから好きな服より機能性、という人もいるだろう。それでもその中に何かしらあなたらしさを加えることはできるはずだし、でなければ休日や帰宅後に好きな服で過ごすだけでも十分だと思う。

服を知る、自分を知る、が大切になる時代。

何が言いたいかって、自分を知るためのツールとして服って最高よ、ということだ。子供のころから「こうあれ!」と半ば強制されてきた私たち日本人のファッション感だが、それがいかに「自分の頭で考える」「自分の個性と向き合う」チャンスを奪っているかを知ってほしい。一時期の私は「着たい服が着れる職」を仕事探しの条件にしていたぐらいだ。そのくらい日々の‟着るもの”がいかに自分のQOLに影響するかを知っていたからである。

田舎に来てより感じるのが、この「自分のアウトラインを知っていること」の大切さ。このことが色んな選択をしやすくしするし、本当の意味での“自分の人生を生きること”の手助けをしてくれると思う。たかが服、されど服。なんたって「衣食住」のあたまに来るくらいなので、絶対にバカにできないだろう。

…ということで今年の春は、下北で買った1,000円ワンピをヘビロテします。

guesthouse Nafsha
オーナー 美郷

【guesthouse Nafshaは、福島県内外の作家の皆さまと作り上げた、一日一組限定の“暮らしを感じる”宿です】

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