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人間関係のストレスに弱い原因と解決策

人間関係のストレスに弱かった頃の自分は、他人の目線にいつも怯えていました。不機嫌な態度を取られたり、嫌味を言われたら、過呼吸になってしまうくらい傷付きました。

なぜ他人の目線にビクビクしたり、他人からの評価に一喜一憂してしまっていたかというと、嫌われるのが怖かったからです。他人に嫌われる、好かれないということに、生命の危機を感じてしまうほどでした。だから、いつでも他人に嫌われないように気を配り、酷いことをされてもピエロのようにヘラヘラして我慢してきました。好かれるために無理をして、嫌いなことや、やりたくないことも、努力してきました。

それでも、それが報われないこともあります。人を好きになったり、嫌いになったりするときは、「何となく」ということがあるし、遺伝子レベルでその人のことを好きになったり嫌いになったりすることもあるからです。そのため、どんなに頑張っても他人に嫌われてしまったとき、「頑張っても愛されない自分」に対して失望してしまい、自殺を考えしまうほど落ち込みました。本当に目指すべきだったのは「頑張らなくても愛される自分」だったのかもしれないと、今になって思います。

なぜそこまで他人に嫌われることに脅威を感じていたかというと、それはおそらく、「幼少期にありのままの自分だと愛してもらえなかったことの後遺症」なのではないかと思っています。

自分で生きていく力がない子どもは、生きていくために親に愛されようとします。無条件で子どもを愛する親のもとに生まれた子どもは、ありのままの自分でも好かれるという成功体験を積むので、誰かに好かれるために無理な努力をする必要がないことを学びます。

一方で「他人よりも優秀でいること」「親のご機嫌を取ること」などの条件を達成しないと愛されない、優しくされない環境で育った場合、ありのままの自分では好かれないという固定概念が心に植え付けられます。また、自分の力では生きていけない子どもにとって、親に愛してもらえないことは死を意味するので、「好かれたい」というよりもさらに強い「好かれなければならない」という強い制約を自分に課してしまいます。それは大人になってからも簡単には解き放たれないため後遺症として残ってしまい、他人に嫌われることに脅威を感じてしまう原因となるのです。(そういう大人をアダルトチルドレンというのだと私は解釈していますし、私自身もその傾向があると思っています。)

そして、他人に嫌われることを恐れて、他人から評価されることが生きる目的となると、他人の価値観の中で評価される自分を演じることになります。そのため、自分の軸となる価値観が育たず、すぐに他人の主張に流されるようになります。やがて、何が好きで何が嫌いか、何をしたくて何をしたくないか、楽しいのか楽しくないかなどの、当たり前のことさえわからなくなるのです。

人間関係のストレスに弱くなってしまう原因は、他人に嫌われることを脅威に感じてしまうからであり、それは幼少期に「好かれなければならない」という制約を課されてきた後遺症だということを、これまでお話しました。

それでは、どのようにすれば、人間関係のストレスに影響を受けないようになるかというと、「好かれなければならない」という制約を自分自身で解く必要があります。かといって、わざと嫌われるようなことをする必要もありません。必要なのは、自分で自分のことを”条件をつけず”に愛してあげる、優しくしてあげる、認めてあげるということです。幼い頃に両親からして欲しかったことを、自分にしてあげることで、後遺症を少しでも癒すしかないのです。それが他人からの承認欲求にとらわれず「自己承認」を目指すということなのだと思います。

そして、”条件をつけず”ということが大切で、「好かれなければならない」という制約の他にも、好かれるために自分に課していた条件についても、自分自身で解かなければなりません。例えば「優秀でなければならない」「優しくなければならない」「完璧でなければならない」「失敗してはいけない」といった条件のことです。

そういう条件を全て解き放った先には、「ただ生きているだけの自分」がいます。色んな条件を解いた後に残る「ただ生きているだけの自分」は、幼少期に両親から愛して欲しかった「ありのままの自分」です。その「ありのままの自分」を大切にすることができれば、承認してあげることができれば、幼少期に果たされなかった願望が満たされるので、「ありのままの自分だと愛してもらえなかったことの後遺症」は癒されるのではないかと思っています。

自分の体験では、双極性障害になって会社を休職し、悪口や愚痴の聞き役にされていた母親との連絡を絶ち、ほぼ他人の役に立っていない人間になりました。はじめのうちは、「役に立たなければならない」「親孝行をしなければならない」「他人に優しくなければならない」という条件を破ったことに対して、かなり罪悪感がありました。

時間が経つにつれ、誰の承認を得ようとせずとも満足気に生きているペットの猫の姿を観察したり、寿命でペットのハムスターが死んでしまったり、睡眠薬を過剰摂取して記憶をなくしたり、そんな自分のことを妻が怒らずに支えてくれたり、色んなことがあって、結果的に「ただ生きているだけでも素晴らしい」と思うことができるようになりました。「ただ生きている」ということでも自分に価値を感じることができているので、他人に価値を認めてもらう必要もなくなりました。

そして、そうなってからは、好かれるために他人を満足させる必要もなくなったので、なるべく自分の人生の満足度が上がるような行動をしようという考え方に変わりました。誰かに好かれるために自分を犠牲にする必要もなくなりましたし、他人の感情や意見に従う必要もなくなりました。前の自分よりかは、嫌なことは嫌だと言えるようになりましたし、不機嫌になって顔色を伺わせて「見捨てられ不安」を煽ることで他人をコントロールしようとする他人に対しても、「自分の課題ではない」と判断して、身を守れるようになりました。

結局、今思えば、メンタルの悩み事の全ては、「ありのままの自分を愛せないこと」が原因なのではないかと思っています。自分を愛するための条件があることで、無理をして身体を壊したり、条件を守れない罪悪感や無価値感に襲われるのだと思います。また、他人に「好かれなければならない」という制約があるから、他人の価値観で生きようとしてしまい、自分の価値観が育たないのではないかと思います。さらに、「ありのままの自分」を自分で愛するということを学ぶ前に、それをしてくれる他人に出会ってしまうと、その相手に依存してしまうというリスクもあります。過度な要求をして相手を困らせてしまうか、足元を見られて、その対価となるお金や奉仕などを求められてしまうケースもあると思います。

今現在でも、他人の目線が気になることはありますし、完全に承認欲求にとらわれないようにすることは難しいのではないかとも思っています。しかし、その度に、「後遺症が残っているから気をつけよう」と思うことができれば、人間関係のストレスが病気になるまで溜まることはなくなるのではないかと思っています。

それが、今ところの私の解決策です。
※ベストセラー本『嫌われる勇気』に記載されていたアドラーの考え方がベースになっています。

最後までご覧いただきありがとうございました。



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