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「0点」の解答用紙を手にした日に決めたこと① mayumin1

こんにちは。グラフィックデザイナーのイトウマユミです。

さて、突然ですが私が「自ら考え、自ら選び、自ら学ぶ」ようになったのは大人になってからのこと。
大学時代に、「大学は行っても意味がない。辞めよう。」とグラフィックデザイナーへの道にシフトをした頃だ。それから25年。子育て、離婚再婚、起業を経て、「自分で道を選びとる」ことの面白さがやっとわかってきた。遅すぎて恥ずかしいが、それまではその時が楽しければいいという、地に足がついてない生き方をしてきた。

では道を選びとることを諦めていた原因は何か?
それには幼少期から学校に関わる、いくつかのスポット的出来事があった。



1・わからない、できないは、恥ずかしい「みんなと同じができない問題」
2・選べる選択がないとあきらめた「家庭と資金問題」
3・学んでも、意味がない「得意だけではダメなテスト事情」
4・先生も人間である「アルコール依存症になった教師の父親」

図解2

大きく分けてこの4つ。反面教師としてこの過去を振り返りつつ、「自分で道を選びとる」ことへ誰もがシフトできる世界になったら嬉しいと思う。


1.わからない、できないは、恥ずかしい「みんなと同じができない問題」


《アメ玉は、丸か棒か、それとも》

小学1年の時。算数の足し算の授業。その日は参観日で多くのお母さん方が教室に来ていた。「ノートにアメ玉を10個書いて、この問題を解いてね!」担任の先生が言う。アメ玉、ってこんなんよね、とせっせと私が描いたのが下のようなイラストだ。

アメ玉

担任が言う。「あら〜アメ玉いつまで描いてるの。こんな、丸や棒でいいのよ〜!他のみんなみたいに。
え?丸や棒? 教室は爆笑の嵐となった。クラスの皆はとうに問題を解き終わっている。自分だけがいつまでもアメ玉を丁寧に描写していたのだった。みるみる間に私の顔は赤くなった。動揺と劣等感。「自分は他のみんなと同じことができないんだ。」

集団行動にも同じスピードで付いていけないなど、グレーゾーンだと思われるところは多々あった。ASD、ADHDなどのような特性がまだ世に広まっていなかった時代。「同じことができない」=恥ずかしくて、ダメなこと。私と同じように、静かに自己肯定感を失っていった子も多かったのではないかと思う。


《理解の感覚は個々様々である》

年を追うごとに「できないんだ」レッテルはますます加速した。算数は分数あたりで、すでに理解が追いつかなくなっていった。
しかしある日のこと。

「2時間で80kmを進むバスの速さは時速何kmですか。」

時速を求める問題だ。困った。問題の意味すらわからない。そこに新しい担任の先生が、黒板にイラストを書いた。こんな感じのを。

図解


目の前が、一斉に開けた。なにこれ。わかる!!わかるよーーー!!私は自ら手を挙げ、自慢げに回答した。「これなら私でも答えがわかる!できるんだ!」文章では問題の意味が理解できないが、自分は絵にしてもらえればわかる!いわゆる「図解思考」ならわかると認識した。先生は「よくわかったね!」と褒めた。毎回同じような問題で、同じように図解にまずヒントとなる答えを書き込むのだ。単純だが「褒められる」という体験を得たことは嬉しい。自信がついた。自分はどの方法なら、理解が早いかが分かった嬉しさもあった。
自分のように、視覚(Visual)優先タイプもいれば、そうでない子もいる。学校の授業もタイプ別にクラス分してくれたらいいのになあ。などと感じた小学4年の夏であった。



《 ついに、0点をとる。》

しかし中学に入ると、厄介なアレが出てきた。「三角形の証明」だ。これを証明して一体なんになるの?とますます意欲を失う。
高校1年の模試では、とうとう0点を取った。しかもマークシートである。マークシートだから1問くらい当たるだろう。そんな淡い期待は破れた。
0点を取るのは、のび太くらいだと思ってたから現実になると結構なショックである。でも「あ、無理なんだ」と妙に吹っ切れた感があった。なんせ0点なのだ。数学に「興味が全く持てない、できない」ことを真っ向から否定するのをやめた。そして、決めた。

「もう、数学の勉強は一切やらない。」

それから数学の教科書を再び開くことはなかった。
(それがのちに窮地に追い込まれることになるのは、また別の回に)



それから30年。
0点をとったことである意味、「勉強ができる」「いい点をとる」ことへのハードルが非常に低くなった。子どもが「算数で70点しか取れなかった」などと、しょんぼりしていても「そんなに点数取って天才じゃないん!」とすぐ褒める。正直、1点でも取れたらすげー!と褒める自信がある。

それは、あの時に「自分ができないことを認めた」からだ。今も、経理など数字に関しては頭がバーストする為、完全に税理士さんに任せている。できないことは、できる人にお任せすればいいのだ。自分の内側にも外側にも「できない」を容認される環境があれば、自分への信頼は保たれる。小さなことだけど、許容されるということで自分の土台が崩れないのかなと思う。

静かに傷つき自己肯定感を失っていく子が、どうか世界からいなくなるように。

【2へ続く】

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