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Movie 1 僕らが旅に出る理由【アジアンドキュメンタリーズ『輪廻の少年』】

 『アジアンドキュメンタリーズ』を時々見ます。

  Twitterは読むだけでなにもしないのですが、時々アジアンドキュメンタリーズの宣伝が入ってきて、それを読むたびに「うぅ、観たいぃ」と思っていました。

 サブスクだし、月額がそこそこ高い。
 確かに希少価値のあるドキュメンタリーばかりで、あらゆるテーマでそそってくるのですが、ずっと我慢していました。

 ある時、鑑賞したいと思っていた映画が配信を終えることがあることを知って、どうしても観たくなって「ええええい」と。気合で。

 いちばん最初に見たのがこれ。

 2017年のインド映画です。

 インドのラダック地方に、リンポチェが生まれます。
 リンポチェとは、チベット仏教の輪廻転生の高僧のこと。
 ダライ・ラマもそうやって転生した魂が受け継ぐとされています。

 インドは仏教が生まれた場所ですが、現在はほとんどがヒンドゥー教です。カーストを否定した仏教は、インドでは根付きませんでした。仏教は世界を伝播し旅して姿を変えていきます。

 南に向かった南伝仏教と、北に向かった北伝仏教。
 日本仏教は北から中国を経てたどり着いたもの。
 南に向かった仏教は、ラオス、タイ、ミャンマーなど東南アジアのテーラワーダ仏教になります。ベトナムや台湾の仏教は、中国経由なので北伝なのです。地域によって信仰が異なりますし、ほとんど違う宗教と言ってもいいほど。

 スリランカ仏教やチベット仏教は、インドに地理的に近かったこともあり、比較的初期の頃に伝播しました。スリランカ仏教は南伝にも影響を与えましたが独特の宗教となり、チベット仏教もまた、標高の高い地理的条件もあって、独自の発展を遂げました。

 チベット仏教で特に特徴的なのは、修行を積んだ高僧は輪廻転生してまた生まれて来る、と信じられていることです。生まれた子供は前世の記憶を有しており、連絡をうけたチベットの寺院からかつての弟子たちが迎えに来る、と言われています。

 ラダックの少年は、4歳ごろまでにチベットの夢を見て、自分が住んでいた寺院や弟子たちのことを語るようになりました。少年の生家は普通の家です。お姉さんはダンスが好きで、テレビを観ながらダンスをしたりしています。でも少年のする遊びと言ったら、石を積んで夢で見た寺院を再現すること。

 そこでチベットに「リンポチェがいます」と伝えたのですが、チベットとインド国境は中国政府によって封鎖されていて通ることができません。無理に通ろうとすると危害を加えられることもあり、特に僧侶は安全に行き来することができなくなっています。

 前世で高僧だった子は、保護し世話をして、大切に育てなければなりません。親元から離し、世話役の僧侶の家で弟子たちが迎えに来るのを待つのです。

 大々的にリンポチェ誕生を祝う催しが行われ、周囲はリンポチェを特別扱いしますが、ラダックの少年のところには、待てど暮らせど、迎えが来ない。

 次第に薄れていく前世の記憶。夢もあまりみなくなっていきました。
 彼も普通の子と変わりません。
 学校に通い、友達と遊びます。

 そのうちに、いくら待っても迎えが来ないリンポチェを疑い始める村人たちも出てきました。少年は傷つきます。
 ティーンエイジャーに突入し、反抗期が来て苛立ちを募らせ、世話役の僧侶に当たる少年。

 悩んだ末にふたりは、自分たちの方からチベットへ行くことにしました。
 インドを横断する旅に出たのです。

 ふたりがどうなったかは、ネタバレになるのでここまでにします。

 ふたりのつつましい暮らしと、旅の様子を克明に追っていくカメラ。
 初めてインドの街中に出たふたりの、足元が覚束ないような戸惑いに、ハラハラしました。ホテルに泊まることにした夜、窓から外を見た少年の言葉が印象的でした。

 見て。星が下の方にある。山にへばりついているよ

 世話役の僧侶が、あれは星ではない、街の灯りだよと言います。
 少年は、夜に星以外の光のまたたきを見たことがなかったのです。

 都市で見るもの聴くものに驚きながら、それでも心はただただいっしんにチベットを目指している二人。困難な旅なのに、全くブレない。

 見終わって、そもそも「輪廻転生」を本気で信じていない限り、このふたりの生き方そのものが成立しないのだな、と少し驚きに似た気持ちを抱きました。

 彼らが旅に出る理由は、輪廻転生したという、高僧は有難い存在で人々を救うのだという、そのことだけによっています。

 彼らの個人的な問題はひとりだけのものではなく、所属する宗教世界全体の問題でもあります。彼らの世界の問題の根本的な解決をめざすことが、すなわち個人の人生をも支えているのです。

 現在日本では、さかんに自己啓発が叫ばれ、思考のバイアスやゆがみに気づいて、認知の力を高め自分をコントロールする、といった方法論が溢れていますが、それは結局のところ自分の課題を知ることだと私は思っています。さらにはそれは、太古の昔から人間が生まれて死ぬまでの間に向かい合ってきたことでもあると思います。

 生まれてきたこの人生に、自分が課題を持っている、と自覚することは、大切です。

なんのためにうまれて、なにをしていきる
こたえられないなんて そんなのはいやだ
いまをいきることで あついこころもえる
だからきみはいくんだ ほほえんで
そうだ うれしいんだ いきるよろこび
たとえ むねのきずがいたんでも
(後略)
『アンパンマンのマーチ』

 子供が幼いころ、何げなく聞いて歌っていたアンパンマンのマーチに、ある時衝撃をうけました。

 めちゃめちゃ深いこと言ってた…
 やなせたかし先生凄すぎた。
 日本の子供はこれを聞いて育つのか…

 自分の命の課題を知り、解決できなくてもより良くしようとする努力に意義があると感じます。それが生きることの意味なのかもしれません。私たちはいつもそれを探しています。忙しさに紛れて気づかずにいた人が、ひとたび自分が生きる意味や喜びを探していることに気がつくと、突然暗闇に放り出されたように不安になります。無意識に不安に押しつぶされている人の真の理由はこれだったりもします。

 それを宗教的に解決するか否か、というのは、今の日本では個人の選択、自由とされています。

 リンポチェと僧侶には、宗教的アプローチしかありません。それに比べると哲学心理学脳科学などバリエーション豊かな世界に生まれたことは、より幅が広い選択ができていいように思います。でもそれは「たまたま」私が日本と言う国に生まれたからにすぎませんし、必ずしも彼らよりよいとも限りません。どんなところに生まれても、精神的に追い詰められ苦しんでいる人は沢山います。だからこそバリエーションが発達したとも言えますが、おそらく心の内側を見つめるのに、バリエーションは関係ないのです。(ちなみに念のため、私は宗教がいいとも悪いとも思いません。自分の出自に宗教的な環境は無く、大人になってから学んだ学問や方法論のひとつとして認識しています)。

 リンポチェと僧侶の旅は、シンプルで、非常に純粋に感じます。出会いにも別れにも人の絆にも胸を打たれ、観ている方は、彼らが彼らの望むようになり、幸せになれるように願います。

 でもきっと、私はそこに心からは同調できていなかったように思います。少し珍しいものを見る心で、観ていたと思います。そもそも、その宗教を媒介とした社会の人以外では、真実、心から、彼が「生まれ変わりである」と信じられる人は少ないでしょう。私は生まれ変わりを信じるほうですが、リンポチェの世話をする僧侶と同じレベルで信じることはできません。彼らの求道を、私たちはたぶん真の意味では理解できないのだと思います。

 しかしかろうじて、彼らが旅をする理由は理解できます。

 昔『僕らが旅に出る理由』という小沢健二オザケンさんの歌がありました。当時から彼の出自への嫉妬もあってか批判的なことを色々言われていましたが、私はこの曲が結構好きです。

遠くまで旅する恋人に あふれる幸せを祈るよ
ぼくらの住むこの世界では太陽がいつものぼり
喜びと悲しみが時に訪ねる

遠くから届く宇宙の光 街中でつづいてく暮らし
ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり
誰もみな手をふってはしばし別れる

(中略)

そして毎日はつづいてく 丘を越え僕たちは歩く
美しい星におとずれた夕暮れ時の瞬間
せつなくてせつなくて胸が痛むほど

遠くまで旅する人たちに あふれる幸せを祈るよ!
ぼくらの住むこの世界では 旅に出る理由があり
誰もみな手をふってはしばし別れる
『僕らが旅に出る理由』小沢健二

 私は、noteを始めてから、旅のことを書くことが増え、旅を振り返るたびになにかしらの気づきがあることに、驚きを感じるようになりました。旅は旅の道中より、直後より、時間が経ってから思い出すときの方が実りが多いものです。誰かとそれを分かち合ったときにも気づくことが多く、誰かの旅の話が、新しい視点をくれることもしばしばです。

 そんな経験を通して、もしかしたら自分が旅に出る理由は、自分の課題に気づくためだったのかもしれないと思うようになりました。

 可愛い子には旅をさせよとは、よく言ったものです。

 今、世界には「旅に出られない理由」ばかりが積み重なっています。
 悲しい思いでいたところに、先日そこにまた新しい「理由」が加わってしまいました。

 この世界から戦争や紛争が無くならないどころか、どういうわけか、誰かがまた愚かな選択をするのです。誰も望まないはずのことが起こる。歴史から何も学ばず、刹那的な益のために、不安と恐怖による支配を、わざわざ繰り返そうとするのです。戦争はしてはならないと双方にそう強く思う人がいても起こってしまう。全くの不条理です。

 誰かの暮らしや幸せを壊してまで、お金や資源・エネルギー、そう言うものを生み出す土地といったものにしがみつき執着し、独占することが、果たして「人類」の将来のためになるのか、私にはわかりません。

 戦争以前に「旅」のできない世界にはしないでほしいと強く思います。感染症を防ぐためでもなんでもなく、ただただ、同じ人間が同じ人間に、力ずくで命を質にとって道を塞ぐことはしないでほしい。ここから先は行けない、ここは通ってはいけない、通るならば何かを犠牲にしろ、そんな道はあってはならないと思うのです。

 私たちの、のちの世代の人々が、この小さくて広い惑星を誰でもが行き来して、自分と違う生き方の人と友達になり、とっくりと風景を眺めることができる世界であってほしいと心から願います。未来の彼らがひとりひとり自分の持つ課題に気づき、それが世界に還元されるように。

 そしてもうひとつ大事なことは、人生という旅の中では、星の王子さまや青い鳥のように、たとえどこにも出かけなくても、私たちは大事な人やものとは、ちゃんと出会っている、ということ。

 大切なことは目に見えない。
 大切なものはそばにある。

 そういうことに気づくためにも、旅があるのではないかと思います。

 旅が終わり家路について、なつかしい場所に戻り、ああここが母国ふるさとだと感じる幸せが、誰かによって奪われることのない世界であってほしい。そう強く祈ります。





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