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『お正油差しは笑わない』

「ねえ、どう思う? お正油差し。笑わないの」

 蓮見凛が近づいてきて、そう言った。
 咄嗟には意味が分からなかった。思わず彼女の顔を真正面から見つめた。
 長い黒髪に、白い肌。切れ長の目、瞳の色は濃い茶色だ。リップくらいしか塗っていないだろうに、その唇はみずみずしく、ほんのり赤い。
 考えてみれば、こんなに至近距離で彼女を見つめたことはなかった。
 ……とても可愛い。
 日常に覆われた世界が急に色づいて、眩しくきらめく瞬間。それが不意にぼくを訪れた。
 いまは昼休みで、自分の席で雑誌を読んでいたところだ。思考メモリをすっかり奪われ、ぼくはその体勢のままフリーズしている。

「聞いてる? お正油差しが……」

 座っているぼくをのぞき込むように、さらに彼女は顔を近づけてくる。吐息がかかるくらいに近い。
 その一瞬、彼女の甘い(ぼくの主観のせいだろうか)呼気に入り混じって、なにかの匂いがした。なんだろう、どこかで嗅いだような気がするこの匂い。食欲を誘うような、とても美味しそうな……。

「ねえ、お正油差しが、笑わないんだってば」

 ……あ、崎陽軒のシウマイだ。崎陽軒のシウマイの、あの匂いが、彼女から漂ってくる。

「ほら、見てよ。このお正油差し」

 蓮見凛は、崎陽軒の箱を手に持っていた。それをぼくの鼻先に突き出して、中身のシウマイに添えられている小さな白い陶器を指し示してきた。
 お馴染みの正油差しには、(>_<) ←こんな感じの簡単なイラスト、というか記号のようにコミカルな表情が描かれていた。たしかに泣き顔のように見える。

「ね、これ泣き顔だよね。わたしが開けると、いつも笑ってないの。へんだよね? 普通は、笑ってるよね?」
「え、いや、うん……」

 どう答えていいのだか分からずにいると、彼女は立ち去ってしまった。そしてまた別のクラスメイトに同じように尋ねて回る。どうやら教室にいる全員に聞いて回っているらしい。ぼくと同じように、誰もがその対応に戸惑っていた。
 それはそうだろう。いきなり意味が分からない。いつもの彼女はそんな突拍子もない振る舞いをするキャラではなかった。

「ちょっと凛、どうしちゃった? なにしてるの?」彼女と仲のいいグループの女子たちが、崎陽軒の箱を持って歩く彼女を止めた。
「……だって笑わないから」

 虚ろな表情の凜は、うわごとのように「笑わない」と繰り返した。
 それから彼女は自分の席にひとり座り、崎陽軒のシウマイを食べはじめた。その昼食を終えると、カバンを持って教室を出て行った。そのまま早退する気らしい。そんな彼女の様子に、クラス中が落ち着かない雰囲気に包まれた。机の上には、崎陽軒の正油差しだけが残されていた。

 ポツンと置かれた小さな陶器の、泣いている顔。誰もそれを片付けようとはせず、しばらくずっと置きっぱなしになっていた。

 その日を境に彼女は学校に来なくなり、一ヶ月が過ぎた。
 あの一瞬に芽生えたぼくの恋心も、パッケージングされ、そのまま冷凍されてしまった。
 季節は、すっかり夏になっていた。

○◁

 学校帰り、いつもの土手沿いの道を、ぼくは自転車で走っていた。
 晴れた午後の夏空、遠くにある入道雲が白く渦を巻いている。近くの雑木林からセミの声が聞こえている。
 ゆるやかな登り坂に入ってペダルをつよく踏み込んだ、そのときだ。
 すっかり見慣れた風景のなかに、異物が混じっていることに気づいた。
 進行方向の右側、土手の芝生の緑に、白い影のようなものが際立って見えた。
 だんだんと距離が近づくにつれ、それが真っ白な長いコートを着て、頭にフードまでかぶった人間だということが分かった。

「……絶対ヤバイ奴だろ、あれ」

 思わずひとり言が口からもれた。いまは夏なのだ。すこし動いただけで汗ばむくらいに暑い。なのに、あんな冬物の、真っ白いコートを着込んで一人で突っ立っている。まず危ない人に違いない。関わり合いになりたくない。
 ところが道をそれて回避しようと思っても、土手沿いの一般道で、それようがない。だからといって急にUターンするのも思いっきり不自然だ。どうしよう。
 そんなことをウダウダと考えている間に、すぐ近くまで来てしまった。こうなったら、そうっと、何気なくやり過ごすしか……。

「うわっ! ちょっと、なに、なんですか!?」

 急ブレーキをかけて自転車を止めた。白ずくめの不審者が、いきなり目の前に飛び出して、大きく両手を広げて立ち塞がったのだ。
 おいおいマジかよ。なんだこの人は……。
 目の前の不審者をうかがうようにのぞき見ると、さらに驚かされた。

「えっ……蓮見」

 白いフードのなかには、蓮見凜の顔があった。一ヶ月前、ぼくが一瞬で恋してしまった、あの美しく整った顔が。

「……蓮見さん、だよね? なにしてんの、こんなとこで」

○◁

「ボクは、蓮見凜ではない」
「え?」

 真っ直ぐにぼくを見つめる少女の顔はひどくシリアスだった。それだけに、その発言と状況はより滑稽なものになっていた。

「いや『蓮見凜ではない』って、ちゃんと名前分かってるじゃん、自分で。おれ『蓮見さん』って、名字しか呼んでないしさ、いま」

 思わず冷静に突っ込んでしまった。「お前は冷めている」と両親や姉、仲の良い同級生にも普段からよく言われる。
 まあきっと、蓮見凜はすこし心を病んでしまったのだろう。思春期にはありがちなことかもしれない。わりと明るい性格で、友達も多いように見えたけど、些細なことで精神のバランスが崩れたとか。家庭でなにかあったとか。……ああ、こんなに可愛いのにな。そんな思考を、このフリーズした時間のなかで巡らせた。

「……」

 大きく両手を広げたまま、白ずくめの蓮見凜は固まっていた。容赦ない夏の陽差しが形作る、ぼくと彼女の黒い影も地面で固まっている。
 セミの声が一際大きくあたりに響いていた。

「……暑くないの? その格好」

 彼女はさっきからポカンとした、虚を突かれたような表情で、ぼくを見ている。青白い顔はまったく日に焼けておらず、汗一つ浮かべていない。べつに暑くはないらしい。全身を包む白いコートの内側に、強力なファンが仕込まれているのかもしれない。そういう作業着があるのを、前にテレビで見た気がする。
 フードまですっぽり被った彼女は、等身大のてるてる坊主のようになっている。炎天下のてるてる坊主というのも、やっぱり異様だ。

「とにかくボクは、蓮見凜ではない。蓮見凜の身体を借りている存在だ」

 再び彼女が口を開き、その台詞を言い終わると同時に、両手の指をパチン、と鳴らした。
 その音が合図になって、空から無数の固形物がバラバラ降ってきた。

「いて! いててててて、ちょっと、なんだ、これ」

 降ってきたと言ったが、正確にはそれはぼくの頭上一メートルくらいの中空に、不意に出現したらしかった。頭や肩にぶつかったうちの一つを、偶然手でつかんでいた。白い陶製の、これは……。

「ボクの名前は、オ=ショーユサ・シ。空間と崎陽軒を司る、いわば魔術師のような概念として存在している」

 開いた手にあったのは、もちろん崎陽軒の正油差しだ。
 地面や自転車のカゴにも、それは無数に落ちて散らばっていた。なかには割れてしまって、中身の正油が漏れ出ているものもある。
 そう言えば、正油くさい。
 首を曲げて自分の肩を見てみると、そこにも思いっきり正油がこぼれて染みこんでいた。

「うわ、すごい汚れた」

 肩だけではない。白いワイシャツのところどころが、茶色く染まっている。そして自分の周りが、ものすごく正油くさい。地面にこぼれたそれもジリジリした陽差しで蒸発して、正油色の陽炎が立っているような気がした。そのせいもあってか、まるで蒸されているように暑い。

「そんなことよりも、お正油差しを見て欲しい」

 蓮見凜の身体を借りているという謎の魔術師が言った。

「みんな、笑ってないだろう?」

 たしかにパッと見た感じ、笑顔のものはなさそうだ。怒り、哀しみ、不安……そんな感情を表す記号的な表情ばかり。

「崎陽軒のお正油差しから、笑顔が奪われた。蓮見凜だけはそれに気がついた。だから彼女は失われ、概念であるボクが呼ばれたんだ」

 少なくとも一ヶ月前には蓮見凜であったらしい魔術師が、じっとぼくの目を見つめて言う。その内容は突拍子もなく、にわかには信じられないものだ。

「世界の綻びは、そういった細かいところにまず現れるんだ」

 失われた彼女。ボクっ娘の魔術師が語る、世界の綻び。
 信じられない、というか恥ずかしいくらいに厨二病のワードが並んでいる。なんだこれは。
 しかしとにかく、全身が正油くさい。すごく、くさい。そして暑い。頭がクラクラしてくる。

「ボクと一緒に来てくれ。奴らを止める。そしてシウマイを救う。キミには、そのための力、そして義務があるはずだ」

 怪しい魔術師が、美少女の同級生の顔をして、ぼくを誘う。その言動は支離滅裂だ。しかし実際にぼくの日常は綻びを見せはじめている。そこらに散らばる、崎陽軒の正油差し。これはまったく笑えない状況だ。

未完(つづく?)


執筆開始と未完の理由(没ネタ祭)

これは夏の初めの頃に『ブギーポップは笑わない』の再アニメ化というニュースを見たことがきっかけになり、書き出したものです。
そのニュースについて彼女と話してしばらく後「ねえ、なんだっけアレ」と問われました。「アレってなに?」と問い返しますと「だからアレだよ、アレ」とアレアレ言う。ああ、これは老化のはじまり。いつの間にか僕らも若いつもりが歳を取ったもんだ。暗い話にばかり……と思わずユニコーンの名曲を口ずさみそうになったところで「ほら、さっき話した『お正油差しは笑わない』みたいな小説だよ」と彼女が言いました。『お正油差し』って、なんだよ。『お正油差し』と『ブギーポップ』、なんとなく語感は合ってるけどさ。そら、お正油差しは笑えないだろう。モノなんだから。そういえば君は崎陽軒のシウマイがとても好きだよね……って会話に着想を得て書き出しました。

それで実際に書き出したところ、やっぱり当然のことながらすぐに行き詰まるわけで。なんとかここまで来たにしろ、その先まで書ける気はしない。まあ最初から、キチンと完結するとは思ってはいなかった。ただやりたかったのは『ブギーポップ』のパロディ。なんとなくああいう雰囲気で書いてみたかった。それだけのもの。しかしよく考えてみれば『ブギーポップは笑わない』という作品自体、最後まで読んでいなかった。たしか高校一年のときノジマ君に薦められて、学校の図書館(いわゆるライトノベルもリクエストされて入荷したりしたのだろう)でパラパラとめくった記憶がある。その頃には何というか「太宰もいいけど、いまの気分的には安吾だね」とか、そういう文学かぶれで「こんな厨二病みたいなラノベ、恥ずかしくて読めねえよ」とかいきってる完全なる厨二病だったので、本当に導入部分だけで読むのを止めてしまった。しかし何となくこんな雰囲気だった、という印象は残っている。だから本当のファンの人は気を悪く……も別にしないか。ただ単にバカバカしい話にしかならなかったし。

しかしツラツラ考えるに、この後の展開としてはクラスメイトをどんどん陶器のお正油差しに変えてしまう敵が出てくる。そのお正油差しの表情も、ことごとくみんな笑っていなかったりして、それが思春期における学校という閉じた空間におけるペルソナを剥がされた心のアレで、繊細な感情とか、世界の残酷味とか……そして崎陽軒のシウマイは、あくまで「シュウマイ」ではなく「シウマイ」と表記するという厳格な規律こそが事件の核心に迫っていくキーとなり……とか妄想してたら、なんか楽しくなった。つまり厨二病はいつまでも自分の心を覆っているのだろう。フォーエバー、セカイ系。

さらに追記

ここまでザッと書いたものを件の彼女にみせてみたら「ねえ、わたしが最初に言ったの『笑わない』じゃなくて『眠らない』だよ」と突っ込まれた。
『お正油差しは眠らない』
たしかに、そうだったかもしれない。しかしいまさらそんなことを言われても、話の大筋から変えなくてはならないから困る。笑わないと眠らないでは、大分違う。だから黙殺した。自分に都合よくナチュラルに記憶の改竄、これもまた老化かもしれない。
そういうわけで、厨二病が抜けないまま老化する私が書いた未完のライトノベルでした。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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