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私は私であることから逃げられない-映画『私をくいとめて』

昨年末に観損ねた「私をくいとめて」が早くもAmazon Primeにやってきた。

主人公、黒田みつ子は31歳・恋人なしの一人暮らし。
気楽なおひとりさま生活を楽しんでいるが、脳内にいるもう一人の自分「A」との会話が心の支え。「A」はみつ子の精神安定剤的な役割を果たしている。

そんなみつ子が近所に住む取引先の年下男に恋をする。
恋人は欲しいけど、今の生活もそこそこ快適。
ゆらゆら揺れる三十路女の心情が、脳内「A」との会話と共に、コミカルに描かれるのがこの作品。


1. 誰かといるためには努力が必要

この物語のコミカル部分を支えるのがみつ子の会社の先輩ノゾミさん。
みつ子が心を許す数少ない友人の一人でもある。

このノゾミさん、コミカル担当でありながら吐き出す言葉が意外と深い。

人間なんてみんな生まれながらの「おひとりさま」なんだよ
誰かといるためには努力が必要なの


確かに。
人間はひとりで生まれてひとりで死ぬわけで、ある意味ひとりでいることがデフォルトだ。

みつ子に関して言えば、「A」との世界に閉じこもり、おひとりさまの世界に生きていれば、煩わしい人間関係に悩まされることも、誰かに傷つけられることもなく穏やかに日々を過ごせる。うん、その方が気楽に違いない。

にも関わらず、恋をしたり誰かと過ごすことに惹かれてしまうのが人の常。
そしてそのためにはノゾミさんが言う通り努力が必要で、それは「ひとりの平和な生活」を手放すことを意味する。
「誰かといることの安心感」と「ひとりでいることの気軽さ」のトレードオフはなかなかエグい。

実際のところ、「誰かと過ごすこと(=恋人がいること)」あるいは「ひとりでいること」、そのどちらを選んでも幸せに生きることはできるし、逆に不幸せな気分になる事もあるだろう。要はどっちもどっち。

しかしこの世の中、誰かと共に生きることが是とされ、それが普通だと信じる人が一定数いるのも事実。そういう文脈において「おひとりさま」でいることは、ある意味気疲れすることなのかもしれない。本当は自分が居心地よいと思える環境こそが自分の幸せに直結するので、他人にどう思われるかは関係ないのだけどね。



そして、みつ子。
「ひとりでいることの気軽さ」を満喫しながらも、一方でイタリア人と結婚&ローマで暮らす親友皐月を羨み、自分だけが取り残されたような気持ちになったりもしている。それもそのはず。自分が思う「居心地の良さ」、つまりは「A」と過ごす現状が、自分にとって良き選択であったかどうかなんてなかなか判断がつかないから。人生100年時代において31歳とは、人生の3分の1にも到達していないワケで、まだまだ揺れるお年頃なのだ。


ところで、「誰かといるための努力」をすることで、おひとりさまでは見ることのない景色が見えるのも事実。それは自分がコントロールできない他者との関わりの結果ようやく見える景色で、おひとりさまのマイペースな平和とは真逆の世界だ。

その世界を知ることを、人は「成長」と呼ぶのだろう。
そうなのだ、成長するためには努力が必要。


2.おひとりさまが研ぎ澄まされていく過程について

この作品ではみつ子の微妙な心の揺れをとても丁寧に描いている。
たとえば、恋のお相手である多田くんとのチャットがそれ。
付き合う前の微妙な時期の、二人の会話がとてもリアルなのだ。

イタリア旅行中、チャットで「初めて炊飯器を使った」と送ってきた多田くんに、みつ子はこう返信する。

ごはん、美味しく炊けましたか?

多田くんはそれには答えず、こう言う。

スリや変な人に気をつけて。良い旅を。


多田くんに他意はなく、本当にそう思ったのだろう。
でも、みつ子にとっては、聞いたことに答えてくれない多田くんに対しちょっとした寂しさを感じたのではないか。あるいは、「誰のためにご飯を炊いたの?」というような疑問や軽い嫉妬。そして、自分の知らない彼の世界に対する失望みたいなものもあったかも。
いずれにしても、それがお互い気持ちが通じあっていないことの証みたい思えて、みつ子の心にチクリと突き刺さる。

共感したのはこの場面だけではない。
幸せそうな妊婦にみえる皐月への羨みとか、みつ子が送った思い出の写真のことを忘れている彼女への軽い失望とか。

「こーゆーの、あるよな」と思う。

口に出すほどのことではなく、誰が悪いわけでもない。自分の中で地味に消化するしかない小さい引っかかり。

でも、ひとつひとつはたいしたことではなくとも、積み重なると結構キツイ。
こうゆうのが溜まって人は自己肯定感を毀損し、気分がどーんと落ちたりするのだよ。


さて、みつ子がひとりを好むのには訳がある。
31年間の人生の中で彼女は彼女なりの傷を負ってきた。
それはきっと、たいしたことのない小さい傷から、他人と距離をおきたいと思う程度には深い傷まで、人間なら誰しも負っている類の傷なのだと思う。
でも、ここでも積み重なった傷が彼女を身動きできなくさせている。

そうしているうちにどんどん内向きになっていったみつ子。
「A」と会話をすることで心のバランスを保つ日々が日常化していき、おひとりさま生活が研ぎ澄まされていったのだと思う。


3. 私は私であることから逃げられない

しかし、そんなみつ子に変化をもたらすのが多田くん。

みつ子は安全で居心地のよいその場所から一歩踏み出そうとうする。
しかし、恋にご無沙汰な彼女は多田くんとの距離の取り方がわからない。

ホテルで一夜を過ごすことになった夜も、みつ子は「逃げたい、ひとりになりたい」と葛藤する。そして、Aに当たり散らす。

Aと話すのなんて狂った独り言じゃん
私このまま、止めどなくひとりでしゃべり続けてぶっ壊れるんだ


傷つきたくないから逃げるみつ子。
でも、それでは前に進めない。
優しい聞き役で相談相手だった「A」はみつ子に言う。

あなたはあなたであることか逃れられません


こう言い放つ「A」は実際のところみつ子自身なわけで、つまり彼女はわかっているのだ。私は私であることから逃げられないということを。
安全な場所から出たくないと思う気持ちと、逃げてばかりではいられない現実との狭間でみつ子は葛藤する。その結果、「A」は去っていく。


さて、この物語では「Aが消えること」=「みつ子が自分の殻から這い出て前進する象徴」として描かれる。「A」なしで生きていくことこそが、前に進むためには必要だという流れで、それをポジティブなこととして表現している。

でも、思うのだ。
寂しかったり悲しいことがあったら、またいつでも「A」を呼べばいいと。

だって、「A」は自分自身なのだから。



4. 私の脳内にも「A」がいる

この映画を見てふと考えた。

私の脳内にも「A」はいるのだろうか?

答えは「Yes」だ。
実際、ひとりで家にいる時に独り言を言っていることがある。
そんな時「A」は確実に私の脳内にいると思うし、そういう意味でみつ子のことを変わった女だとも思わなかった。

ところで「A」の存在とはなんだろう。

「A」が自分自身であることを考えれば、「A」との対話は自分を癒すためだけでなく、自分の気持ちと向き合う手段なのだと思う。つまり誰よりも自分を理解してくれる存在。

だったら、辛い時や話し相手が欲しい時はいつでも「A」を呼べばいいのだと思う。
確かに、「A」に頼るということは自分の殻に閉じこもることと同義なのかもしれない。でも長い人生そんな時期があったとしてもいいではないか。

大切なことは、「A」のおかげで心を強く持てるということ。
ある意味、お守りみたいだけど。


さて、「私をくいとめて」は「勝手にふるえてろ」でタッグを組んだ、「大九明子監督×綿矢りさ再び」の作品。「勝手にふるえてろ」と同じく独特のテイストで、31歳おひとりさま女の内省物語を明るく、そして真摯に描ききっている。

そしてキャストが本当に素晴らしい。のんはもちろんだが、「あまちゃん」でのんと共演した橋本愛が皐月役で出演しているのも嬉しい限り。また、「おっさんずラブ」以来好きになった林遣都の出演も個人的にはツボ。

ところで、映画を見ながら「なぜ「A」は男性なのだろう?」と疑問だったけど、このギャップが物語のコミカル要素を際立たせているのだろうな。

何はともあれこの映画、コメディかと思いきや実に深く、そして実に良き観了感だった。


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