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総合芸術としての建築の終わり?「アフターデジタル2 UXと自由」について。(商店建築連載の雑記③)

西倉美祝 / MinoryNISHIKURA

01. 建築がイニシアチブをとれない時代?

「建築は総合芸術だ」

「様々な物事を統合し、建築のデザインへと昇華することが建築家の職能だ」

他分野からはエゴイスティックにも聞こえるかもしれないこの認識は、少なからず、建築に関わる人には共有されているはずだ。
確かに、複雑で巨大な建築物を竣工させる以上、いろんなジャンルの話をまとめあげることが建築家に必要なスキルであることは否めない。

一方、その認識から逃れていくように、建築物の設計では手に負えないような事象や課題を、社会は日々増やし続けている
「街づくり」「不動産」「物流」「起業」そして今日言及する「オンライン」などなど、建築を設計する上で考慮すべき要件は専門の外部へ、外部へと広がっている。
そして、社会からの要請が建築設計外に広がるたびに「建築家の職能とは何か?」という聞き覚えのある議論が、イタチごっこの如く再燃する。

もはや、「これは建築ではない」という発言がはばかられるほどに、「建築家の職能の拡張」は建築家の創造性の指標として捉えられている。
むしろ「君のやっていることは建築ではない」と言われることは、(本人がいくらそれを卑下しようとも)一つの勲章のようなものだ。

しかし「建築家の職能を広げる」という言葉には「職能を拡張しさえすれば、建築が物事を統合できる」という暗黙の了解がある
どこまでジャンル横断的に、建築家の職能を拡張しようとも「建築は総合芸術だ」への信頼と自信は変わっていないようにも見える。

そんな「物事のプラットフォームとしての建築」という信念に顔面パンチを食らわせるのが「アフターデジタル2 UXと自由(著:藤井保文)」(以下「アフターデジタル」)だ。

OMO(= Online Merges with Offline)RaaS(=Retail as a Service)、などの議論の火付け役にもなった本書(正確には前著作「アフターデジタル オフラインのない時代に生き残る」が存在する)だが、
その内容は一見すると、物理的な空間(Offline)を半ば前提とする建築家にとって非常に肩身の狭い現実と未来像を突き付けてくる。

OMOとは、「オンラインとオフラインを分けるのではなく、一体のジャーニーとして捉え、これをオンラインの競争原理から考える」という概念です。ジャーニーとは人の行動・思考・感情などを見える化したものを指します。オフラインがなくなると、オンラインとオフラインを分ける意味はなくなります。ユーザーは「今はオンライン」「今はオフライン」という区別を意識せず、そのとき一番便利な方法を選んでいるだけです。
「アフターデジタル2 UXと自由」(著:藤井保文)p23

体験提供型ビジネスをOMOの思考法で運営し、エクスペリエンス×行動データのループを回す新たなビジネスモデルを、「バリュージャーニー」と呼んでいます。
これまでは、「製品を販売する」というゴールに向かって、モノを企画し、生産し、ファネル型で売っていく従来型のバリューチェーンでした。(・・・)
これからは「製品はあくまで顧客との接点の一つ」と考え、他の接点である、アプリ、店舗、イベント、コールセンターなどと等しく扱われるようになります。ビジネスモデルは、すべての接点が1つのコンセプトでまとめ上げられ、その世界観を体現したジャーニーに顧客が乗り続け、企業は顧客に寄り添い続ける、そうした新しいバリュージャーニー型に変化します。
「アフターデジタル2 UXと自由」(著:藤井保文)p25-26

オフラインの体験はオンラインの体験に滑らかに接続され「バリュージャーニー(=デザインされた一連の行動と体験(※西倉による意訳)」として循環するようになる。
すると、建築を始めとしたリアルな空間はバリュージャーニーの一過程に過ぎなくなり、出来事や体験を総合的にデザインするのはフェイスブックやLINEなどのアプリケーションになっていく、と述べられている。

つまり本書によれば、物事を統合する役割はもはやリアルな空間(オフライン)には存在せず、代わりにアプリケーションがオンライン・オフラインの境なく様々な物事のプラットフォームとなる。
そして、一過程を担うに過ぎない建築、およびそれを設計する建築家は、プラットフォーマーとしてのアプリケーションと起業家や開発者が提示する課題やニーズを受動的に応えるだけになる

冒頭の話題を引き合いに出せば、「総合芸術としての建築(と建築家)」は「総合芸術としてのアプリ(と開発主・出資者)」に取って代わられる・・・とも言えるかもしれない。

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(上図)オフラインだけの世界

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(上図)OMO: オンラインがオフラインを統合する世界

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(上図)バリュージャーニーがオフラインとオンラインをつなぎ循環する

02. アフターデジタルにおけるリアルな空間とは?(商店建築連載11月号~1月号)

正直「建築家の職能とは?」なんて議論はクダラナイし、自意識過剰だと思っている。

しかし「アフターデジタル」が提示するビジョンは慧眼(しかも、一部はすでに中国などで実現されている)なので、「アフターデジタルにおいて建築とは?」「アフターデジタルにおいてリアルな空間はどう役にたてる?」という議論は積極的に考えていきたいところだ。
また、「建築は総合芸術であれ!」とか「建築家は様々な物事を総括し統合する立場であれ!」とまでは思わないまでも、もう少しリアルな空間を活かす道もあるんじゃないかな、という気もしている
もちろん与えられた課題を受動的に解決するだけでも構わないのだけど、主体的にグッドな何かを建築(オンライン、リアルな空間)側からも提案出来たほうが、もっと面白いものができるだろうし、アフターデジタル的なプロジェクトへの貢献度も上がるはずだ。

そんなこんなで、雑誌「商店建築」連載「商業空間は公共性を持つか」では、11月号~1月号は「アフターデジタル」をテーマにし、
11月号ではb8taの北川さん12月号ではRetailNextの立松さん1月号(予定)はmui Labの大木さんにインタビューを行なっている。
建築諸氏には馴染みがない方々かもしれないが、馴染みがない人ほど、ぜひチェックしてもらいたい・・・!今最先端ではいろんなことがうごめき変化している。
(自分もこの三ヵ月は相当勉強させてもらいました)

そしてこのnote記事では、連載では触れていない「『アフターデジタル』のビジョンを一度肯定し、前提としてみた上で、建築家が何になれるのか?」について、簡単に想像を巡らせてみたいと思う。

03. 「アフターデジタル」を受け入れた上で

「プラットフォーマーがリアルな空間からアプリケーションになる」という話から分かる通り、「アフターデジタル」の議論は主に民間が主導する社会を対象としている。そのためこの議論は民間事業にのみ関わる話であり、公共事業やパブリックスペースを主導する建築家像には当面のところ抵触しないと見ることもできる。

・・・とはいえ、ことOMO(= Online Merges with Offline=オンラインがオフラインを統合する)についていえば、そうはいかない。

(接点革命としてのOMOにおける)発想の転換として、「リアル接点を軸に、デジタルをツール的に扱う」という従来型から、「デジタル接点を軸に、ユーザーの状況を捉え、リアル接点をツール的に扱う」という考え方に変化していると言えます。
「アフターデジタル2 UXと自由」(著:藤井保文)p107

僕たちが実感している通り、民間・公共関係なく、オンライン上のやりとりは僕たちの日常生活に少しずつ浸透し始めている。役所に行かずともホームページを見て解決できることもあるし、住民票などの発行もマイナンバーカードでコンビニでもできるようになった。確定申告にいたっては全てオンライン上で済ますことができる。

自分でアプリケーションを開発し提供する、もしくは自身が起業家となり出資者となる場合については特段言及する必要もないと思う。建築というジャンルにイニシアチブを感じず仕事の幅を広げる人が特段「建築/建築家」という手段/立場にこだわる必要はないからだ。
なので、ここで考えてみたいのは「『アフターデジタル』を受け入れた上で、建築(家)側から主体的かつ積極的に価値を提供できる可能性」だ。

「アフターデジタル」はその名の通り「デジタルのその後」を描いた本だ。デジタルやオンラインから見た時
「デジタルのその後には、オフラインの出来事も1つのバリュージャーニーによってオンラインに接続していく」
というのが論旨だ。
つまり、リアルな空間(オフライン)の体験がバリュージャーニーの一過程に過ぎなくなるというのは、デジタル・オンラインの視点からみた世界のあり方、ということになる

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(上図)オンラインから視たバリュージャーニー

これを建築(オフライン)の視点から視たらどうだろうか?

「アプリケーションが提供するバリュージャーニーに従って建築ができたとしても、その建築で起きる出来事や体験のすべてを1つのバリュージャーニーのみで説明できるのだろうか?」

・・・建築(オフライン)に携わる者なら多少ならずとも、こんな違和感を覚えるだろう。

ふと脇見をした時に目に映るものが想起する思い出、時刻や季節によって少しずつ変化する光や風、経年変化による予想外の素材の表情、近所の人との関係性、庭に忍び込んできたネコなどなど・・・

用意された行動や体験では説明しきれない「他者」や「想定外」に溢れているのが建築であり、それこそが建築の豊かさと見ることもできる。
仮にバリュージャーに従って建築が設計されたとしても、それ由来の出来事と体験は建築全体における高々5%ぐらいだとしたら、残りの95%はいつまでの余剰(=実在性)として残り続ける

問題は、目的に従わない95%の消去を試みるか放置するか、もしくは積極的に評価するか、ということだ。

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(上図)オフラインの余剰

04. マルチパラレルにバリュージャーニーを重ねまくる

消去を試みるスタンスは従来の、効率化一辺倒の商業空間を思い浮かべればいいだろう。これを目指すのであれば建築という視点が介入する必要はない。
しかし、95%の余剰を抑えきれないというのは明らかだ。
例えば、僕が行なっている商業空間の行為調査では、どんなに効率化を徹底した商業空間でも、使用者による想定外の自由な行為を発見することができた

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(上図)商業空間で、利用者が自ら余った空間を発見しリビング的に使う

95%の余剰を放置する、というのはトマソンを愛でるのと近いかもしれない。
目的から切り離し、オブジェクトを潜在的な可能性に開き、その可能性自体を夢想するのは楽しい。
OOO(オブジェクト指向存在論)も、オブジェクト(対象)の底知れない可能性を評価した哲学だ。
しかし、可能性を愛でる行為だけではその先に何もない(愛でること自体が自己目的化する)ので、建築という実践を前提に考えると個人的にはあんまり面白みを感じない。
よって、95%を積極的に評価し、できる限り生かす道を探ってみたい

ここで、複数のバリュージャーニーを重ね合わせるというのはどうだろうか?

バリュージャーニーを一連の行動と体験と考えれば、それはアプリが提供するものだけではないはずだ。

あるアプリが提供するバリュージャーニーを①として、建築Aが①に従ってデザインされているとしよう。
そこで、散歩という一連の行動と体験があるとすれば、それもある種のバリュージャーニー②とも捉えられるし、建築Aが散歩ルートの一部を担っていたら、それはそれで別のバリュージャーニー②の一部となっていると言える。
また建築Aが仕事帰りの休憩スポットにもなっているとしたら、平日の日常の流れという、またさらに別のバリュージャーニー③の一部とも言える

現実を捉える視点の数だけバリュージャーニーは存在し、潜在的な視点の数だけ潜在的に、バリュージャーニーは無数に存在しうる
もしかしたら、ネコの視点からみたバリュージャーニーや、虫の視点からみたバリュージャーニー、なんてのも存在するかもしれない(人間にとって最終的に善いものでないと建築的にはナンセンスだが・・・)

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(上図)オフラインから視たバリュージャーニー(の重なり)

そういった異なるバリュージャーニー(①,②,③・・・)を下手に混ぜ合わせず、それぞれが最大限効果を発揮するよう同時併存(マルチパラレル)させることができれば、オンラインを主戦場とする建築側が主体的に、アフターデジタルなプロジェクトへ寄与する余地があるのではないだろうか

散歩や仕事帰りに立ち寄るだけだった人が
「あそこでなんかいつも面白いことしているな・・・」
と興味を持ってバリュージャーニー①の顧客になることがあるように、
バリュージャーニー②,③・・・をマルチパラレルさせるということは、最初に想定していたバリュージャーニー①へのタッチポイントを倍増させる効果がある、ということだ。

また、ここで重要なのは複数あるバリュージャーニー(一連の行動と体験)を無理にひとまとめにしないことだ。散歩道に利用していた人に押し付けがましく商売っ気を出すと寄り付かなくなるのは容易に想像がつくだろう。

あとは、建築設計サイドがどれだけこの「アフターデジタル」の波にコミットできるか、にかかっている。

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(上図)バリュージャーニーとオフラインが重なり合う

05. 建築を四、五、六次元で捉える

最後にこの話をもう少しだけ、よりオタクな話に拡張させてみたい。

一連の行動と体験が(から)人々(や動植物)の異なる視点から立ち上がり、同じリアルな空間にマルチパラレルに存在するというビジョンは、僕が以前より議論しているオルタナティブ・パブリックネス(=APness)論を元ネタとしている。

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(上図)パースペクティブ主義的建築(建築討論テキストより)

同じリアルな空間においても視点と行動様式によって立ち現れる空間が異なり、それが視点の数だけ半ば無限に重なっている、というのが上記「パースペクティブ主義的建築」だが、
この話を「オブジェクト(←オフライン)」と「フィールド(上記図における『視点=空間』←バリュージャーニー)」というキーワードで読み解きなおすと以下のようなフィールドとオブジェクトの網目(以下「F-O網目」)として表現できる。

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(上図)フィールド(横糸)とオブジェクト(縦糸)の網目

オブジェクト、つまり僕たちが日常的に目にする様々な対象(コップ、テーブル、友人、耳、スマホ、街灯、電車、自動車、自動車のハンドル、日本列島、タンポポ・・・などなど)を縦糸とし、
フィールド、コンテクストや文化的背景、物事の関係性のまとまり、歴史性などなどを横糸とする。
各オブジェクトはどのフィールドでも何かしらの形で出現しつつ、出現の仕方はフィールドによって異なる。例えばあるフィールドでは「リンゴ」だったものが別のフィールドでは「重力の痕跡」とされ、また別のフィールドでは「誘惑の果実」、さらにまた別のフィールドでは「赤い落石」となるかもしれない。

また「F-O網目」において、各フィールドの糸は一次元の線に見えるが、実際のところはそれぞれが別様に各オブジェクトをまとめ上げる、別の三次元空間を司っている。つまり、「F-O網目」は別の三次元空間(フィールド)が平行して存在する四次元以上の空間を表現している、と見ることができる。

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(上図)3次元(各フィールド)+フィールドが離散する次元(1次元以上)

各フィールド(「視点=空間」)が全て同一の方向に並列している(この場合、「F-O網目」は四次元空間になる)のか?
それとも、各フィールドは二次元以上の空間に離散している(この場合、「F-O網目」は五、六(以上)次元空間になる)のか?
もしくはそれ以外なのか?
また、ここに「時間」はどう関わってくるのか?

今の僕には、それらの答えは分からない。
今後、もうちょっと探ってみたいところだ。

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nishikura.minory@gmail.com
MACAP代表 西倉美祝
インスタグラム: https://www.instagram.com/minoryarts/



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