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沖縄 ノロのオバーが生きる意味世界 信仰と科学の狭間で

 沖縄本島近くの島で、ノロの家系に生まれたオバーと会った。70代の彼女の語りには、沖縄という土地が背負わされてきた/背負ってきた歴史が刻まれている。


・オバーとウチナーのこれまで

 オバーは語る。「差別はあったよ。川崎の鶴見で部屋を借りようとしたら、琉球人はお断りって言われた」。「小学校3年のときにね、友だちの○○さんがコザに転校したの。フランス人形みたいな子だったよ。それが従兄弟と3人で歩いてるときに米兵の車に轢かれたの。それで即死、3人とも。米兵は国に逃げて、もう無罪」。

 教科書や本で読んだことのあるような一般的な歴史が、そのなかを生きているオバーの具体的な経験として確かに記憶されている。ウチナーンチュと話すと歴史や政治の話がポロッと出やすいのは、それだけ彼/彼女らにとって歴史や政治は日常で強く意識させられるものであり、そのような社会を生きなくてはならないということの証ではないか。

 そんな人生へ経たオバーはいま、民泊で修学旅行生を受け入れ、手料理を振る舞っている。聞き取り調査に来た私も快く招いて、一緒にタコライスを食べさせてくれた。申し訳なさそうな私に、彼女は優しく言う。「大丈夫、ひとり増えたくらい変わらないよ」。テキパキ手を動かし、切ったレタスを皿に盛る目の前のオバーと、彼女が生き抜いてきた人生の間には、私の想像力では補えない蓄積がある。その深遠さに畏敬の念を覚えずにいられない。

・「ノロ」になるということ

 オバーはさらに、島の信仰について教えてくれた。彼女は、島のノロの家系に生まれた。ノロとは村落の神事祭祀を司る神女であり、かつては琉球王府によって任命された。いわゆるシャーマンというやつだ。沖縄では男系出自によって家が継がれていく。ノロの家系の場合、長女がノロになる習わしなのだ。

 オバーは沖縄の日本復帰前、東京の大学に"留学"した。そこでドストエフスキーなど海外の小説に触れるたびにキリスト教への興味を増していったという。ある日、友人に誘われて行った礼拝に感激し、バプテスト系のクリスチャンになったのだった。

 しかし、ノロにせよイタコにせよ、シャーマンになるよう啓示を受けた者には、それを拒むと災が降りかかると聞く。そしてやはり彼女もこう語る。「小さいころは体がフワフワして、地に足が付かないような感じがあったね。それが教会に行ったらなくなったの」。     

 さらに彼女の知り合いであるノロは、昔から何度も、"何か"から夢のなかでノロになるよう催促されたという。「結婚するから、子育てがあるから・・・」と理由をつけて拒み続けたが、とうとうノロになることを受け入れた。断ると熱が出ることもあった。

 「ノロなんてやるもんじゃないよ」。オバーは言う。「知り合いのノロはね、みんな自分は幸せになってない。苦労するからね、ノロは。旦那がほかに嫁を作ったり早死にしたり。霊感がある人に平安はないよ。だからね、やっぱり教会に行くといいんだよ」。

 ノロになること自体には後ろ向きな感情をもっていても、彼女の生きる意味世界に、霊的な"何か"は存在する。それがどれほど確かなのかはわからないが、"何か"は彼女の生活のなかに意味を持って現れる。

・「信じる」という心の働き

 信仰について訊いてみた。「信仰にはね、まず大きな感激があるの。十字架にかけられたキリストのことなんかを思い浮かべると涙が出てくるよ。感激から来る喜びがあって、自由になれるの」。彼女の信仰は、キリストという姿形を持ったイメージに向けられており、疑いのないものに思える。しかし、私の考えでは、彼女が幼い頃から感じ取ってきた霊的な"何か"に向ける信仰とキリストへの信仰との間に、はっきりとした区切りはないのだと思う。

 信仰とは、必ずしも確信を伴うものではない。いる"かもしれない何か"に向けた、あいまいでどっちつかずの態度。信じているとも信じていないとも言えないない、アンビバレントな感情からくるものではないか。

 私は中学生のころ、帰り道に廃墟の前を通るときはいつも早足になった。そこはかつて機動隊の訓練所で、あるとき隊員の拳銃自殺があったという噂を聞いた。背筋が凍るほど怖いのに、早足になりながらも建物の窓をチラチラ見てしまうのだった。

 オバケや幽霊は考えれば考えるほど、頭にまとわりついた。「いない」ときっぱり言ってしまうと、なんだか彼女ら(なぜか長い黒髪の女のイメージが強かった)を怒らせ、姿を現すのではないかと思われた。カガク的に考えて幽霊なんかいないとわかってはいても、仮に実在したら怖いから、「信じてますよー」というポーズをとるに越したことはない。と、小賢しい論理を働かせていた。

 いる"かもしれない何か"に向けた信仰は、すっかり信じ込んでいるという類のものでは、必ずしもない。それが信じられている社会の人々にとってもまた、それはしばしば"よくわからないもの"であることが、民俗学から報告されている。

 オバーがいまキリストに向ける信仰は、幼少から島で感じてきた霊的な何かへのそれと対立するものではなく、地続きの心の働きなのだと私は感じた。

・世界のなかの私たち


 長話をして日が暮れてしまうと、人家も街灯もない真っ暗な道を歩いて宿まで帰らなくてはならない。木々やサトウキビ畑が両脇に迫る細い坂道を一人で歩くのは、21歳になっても少し怖い。ありもしないものを、草陰に見い出してしまいそうだ。

 近年の民俗学の研究では、怪異に関わる現代の体験談が、都市部から山野へと駆逐されつつあることがわかっている。人間の生活圏から、我々が畏れを向ける対象は消えつつある。日常の生活が営まれる都市は、生産のため合理的・効率的にデザインされているかに思える。そこには、得体の知れない"何か"が活き活きと遊び回るような余白など、きっとありはしない。 

 文化、都市、科学、理性・・・。それらのメガネを通してこの世界を感じる(見たり、聞いたりする)とき、人間は自らを、二項対立のうちの自然と反対の項に位置付ける。

人間 /   自然

 何もなかったところに境界( / )が引かれることで、自然に目を向けることが可能になり、そうするのと全く同時に、目を向けている自己が想定される。この図式にはしばしば優/劣という価値判断が暗黙のうちに差し込まれており、そこで自然は背景へと退く。

 これはカガク的常識を身につけた都市生活者が世界を理解する態度である。決して"現実の世界"を見ているわけではない。そしておそらく本当の科学にも"現実の世界" = 真実を見ることはできない。 

 東京への留学経験があり、テレビや新聞に日常的に目を通すオバーも、カガク的(もしかしたら科学的?)態度を少なからず身につけているだろう。とはいえ、生まれてからの十数年を架橋前の離島で過ごした彼女と、21年間の人生を東京のベッドタウンで過ごしてきた私のメガネは、きっとぜんぜん違う色をしている。

 多くの人間にとってカガクはブラックボックスだ。そこには「理性的・合理的である」という優越意識が、暗黙のうちに埋め込まれている。その意識はたくさんの小さな自然=思い通りにならないあれこれに向けられる。それらに晒されて生活する私たちにカガクは浸透し、自らの領域を拡大しようとするのだ。

「わかる」とか「思い通りにできる」とか思うことは、相手がものを言う力を持たないとき、私たちに特権的な視座を与える。

 小さな自然に意識を向けてやる必要もないほどに、カガクは私たちの安心を演出する。自然に手痛い反撃をくらう機会など、現代においてはそうそうない(図書館で読書中、隣のジジイの貧乏ゆすりが気に障るくらいなら手痛いというほどではない)。カガクなんて、ほとんどの人間にとってはよくわからないブラックボックスなのに、である。まるで呪文のようではないか。

 そろそろカガク(科学)を信じ込むための足場が揺らいできたのではないか。私たちは、カガク(科学)的な態度を含め、信仰とか宗教とか、さまざまなメガネで世界を見ている。  

 より正確に言えば、私のかけるメガネは、カガクが大部分を占めるてはいるが、よくわからない"何か"への畏れとか、人によっては宗教とか、(自己啓発なんかもそうか?)さまざまな色が混ざり合ったグラデーションでできている。それはきっと「ここまでが科学で、ここからが信仰」という具合にきっぱり分けられるようなものでもない。

・「分かる」とはどういうことか

 突き詰めれば、私たちは言葉(厳密にはイメージ)によって境界を引かずには世界を"分かる"ことができない。

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 しかしそのとき、片方の項に暗黙のうちに優位、あるいは劣位の価値判断がしばしば差し込まれているということに敏感でありたい。

 カガクも他の何もかもを含め、人間はそれぞれのメガネで世界を見ている。それらのメガネはひとつとして同じではない。目の前に顔を合わせているオバーが、こんなにも自分とは違う意味世界を生きているということをまざまざと感じさせられると、不思議と畏敬の念が湧いてくる。ひとりの人間のメガネ=心をもってしては、とうてい想像の及ばないような意味世界がそれぞれの人間にあることを考えると、それがすごく汚しがたく、美しいものに思えてくる。

・「科学」の正体

 私は決して、科学を拒絶したり、純粋でプリミティブな信仰を求めているわけではない。「科学的である」ことの代表的な条件に反証可能性というものがある。これは、科学的命題が常に"反証される"ことに開かれている状態を意味する。その反証の荒波に耐えて今の時点で残っているものが正しい命題であり、はなから反証を回避できるように設定されたようなズルい命題は科学的とは言えないのだ。

 これが科学の正体だ。私たちが絶対の真理のように特権視してしまうカガクは、本来、否定される可能性に開かれている限りにおいて成り立つ。実際のところ、科学とは今のところ合意できる"事実"でしかありえない。

 程度は違えど、科学も信仰も同様に真実ではなく、不確かなものだ。それらはどちらも人間が世界に向き合う態度のひとつであり、その点で平等である。それによる効用や進化論的な勝ち負けにのみ支点を置いた価値判断は、決して自然でも必然でもない。

・「あたりまえ」なんかじゃない


 ここまで、当たり前に受け入れられている優/劣、善/悪をはじめとする価値判断の構図を、いちどバラバラに解体しようと試みてきた。私たちが、所与のもの、絶対の真理であるかのように考えがちなあれこれ (科学とか法とか)   は、その効用が"ある目的"に適うから「よし」とされるにすぎない。

 「役に立つからよい」と言うとき、「役に立つ」という類の言葉には、そもそも「よい」という価値判断が多分に含まれている。
これは「よいからよい」というような具合に循環している。

 "ある目的"とは、その社会のマジョリティによって今のところ合意されているものである。その合意はまさに、「効用や進化論的な勝ち負けにのみ支点を置いた」政治のゲームのなかでなされる。それは本当に他の目的よりも優れていると言えるだろうか。そもそも比較できるのだろうか。

 よくわからない"何か"を感じたりキリストを信仰したりすることは、オバーにとっては十分に合理的で役立っている

・『地下室の手記』

「 人間はいついかなる時も、いかなる人間であっても、決して理性や利益が彼に命じるようにではなく、自分の望みどおりに行動することを好んできたのである。自己の利益に反することを望むこともありうるし、ときにまったくそうならざるを得ないこともあるのだ(これも俺の意見だ)。自分自身の自由な欲求、たとえどんなに突飛なものであれ、自分自身の気まぐれ、ときには狂気と見まごうばかりにまで掻き立てられた自分の妄想、こうしたものこそがすべて、例の計算し損なわれ、いかなる分類にも当てはまらず、あらゆる体系や理論を木っ端微塵に砕き飛ばしてしまう、最も有利な利益なのである。

いったいどこから、賢人先生方は人間には正常で高潔な欲求が必要だなどという考えを引き出したものか?何故人間には、よりによって合理的な有利な欲求がぜひとも必要であるなどと、思いこんだのか?

(著者 ドストエフスキー、訳者 安岡治子、2007年、
光文社)


 『地下室の手記』のなかでドストエフスキーは、前半のかなりの紙幅をさいて科学や理性について論じる。賢人先生方が完璧に世界を言い当てる計算式を編み出したとしても、それをあえて、喜んで破るのが人間なのだ、と。

・オバーと私

 「目に見えない世界はね、確かにあるんだよ」。オバーは言う。

 オバーたちが大事に繋いできた、よくわからない"何か"への畏怖は、きっと当たり前をひっくり返す豊かさの源になるのではないかと私は思う。分かったつもりになって、固定化された一色のメガネだけをとおした状態では、変化に富んだ世界を捉えそこなうどころか、よくわからないものに出会ったとき、それを自分の見ている形に歪めてしまおうとする危険すらある。 

 そのとき大切なのは、同情や哀れみによる無力化でも、ましてや先入観や敵視による攻撃でもない。畏怖や畏敬の念をもって、理解の及ばない不確かなものを、一度そのままに留め置くことではないだろうか。分からないというのは辛い過程だ。だがその我慢と格闘するなかで、少しずつ相手の輪郭が感じられるだろう。

 オバーの語りをとなりで聞きながら、私は小さな感激に浸っていた。アンビバレントで"よくわからない何か"を回復するとき、当たり前の履行のために首が回らなくなった世界は解体される。そして私たちは、世界との関係を不断に切り結んでゆくための出発点に立つだろう。そこはきっと、人間の心に秘められた豊かさが再び芽吹く場所だ。

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