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「ハイブリッド授業」は贈り物か、爆弾か

学校が学校じゃなくなっていく。
我が自治体では、オンラインか登校か生徒自身が選択できるという「ハイブリッド式」の授業が導入されることになった。
何と何の「ハイブリッド」なのか。オンラインがデジタルなら、対面授業はアナログだったのか。

ICTを使えと言われた。みんな必死になって、使い方を覚えた。生徒への指導方法も考えた。タブレットやソフトを使った授業で、子どもたちの学びが豊かになるように、一生懸命考えた。ICTがただの道具にならないように。教材になるように。学校だからこそできる使い方を考えた。なのに。

コミュニケーション能力を育みましょうと言われた。みんな必死になって、子ども同士があたたかな関わりができるように、授業を考えた。人と人とが向き合って、やさしさや思いやりをもって、日々を過ごせるように。社会に出たときに、豊かな人間関係を築き、自己肯定感をもって、豊かな関わりの中で生きていけるように。なのに。

オンデマンドの授業を作れと言われた。みんな必死になって、相談して、なんとか完成させた。頑張ったけれど、形だけのものになってしまった。それが悔しくて、悔しくて、それでもそんなものを見ながら勉強してくれる子どもたちの姿を見て、本当に申し訳ないと思った。学校に来たら、うんと楽しい授業をしてやろうと心に誓った。なのに。

アクティブラーニングを取り入れなさいと言われた。みんな必死になって、教育実践と子どもの姿を重ね合わせた。対話的で深い学びのために、話し合い活動やグループワーク、ペアによる学習など、子どもたちが主体的で「学び」そのものを楽しむことができるように。自ら学びに向かう力がつくように。なのに。

始業式の2日前、学校現場に送られてきたのは「ハイブリッド授業」という、子どもたちへの贈り物であり、私たちへの爆弾だった。私たちが今まで必死になって創り上げてきたものは、すべて「オンライン授業」の裏側になった。ハイブリッドなんかじゃない。「オンライン」と「対面」が平行線で走っているだけだ。
オンラインを選択する家庭や子どもに罪はない。コロナに立ち向かう勇気をもって登校してきてくれる生徒も、本当は怖いかもしれない。

言いたいことはたくさんある。でも、まずは考えてほしい。

学校は何のためにあるのか。学校でしか得られない「学び」は何なのか。オンラインやオンデマンドの授業は、私たち教員より業者の方がずっとスペックの高い、質の良いものをもっている。その分野では、私たちは絶対に追いつくことはできないし、そういうものはそういうものとして素晴らしいと思っている。

だからこそ、ずっと問うてきた。私たち教師だからこそ、学校だからこそ創り上げることのできる「学び」を子どもたちに、と。知識だけではない、学ぶことの楽しさや、いろいろな学びの在り方。人と人との豊かな関わりの価値。ともに学ぶことの面白さ。人とつながることで生まれる新しいもの。自分に与えられた役割をこなす中で得られる有用感。うまくいかない人間関係に折り合いをつけながら過ごす人間関係調整力。子どもの表情を見て、成長を見取って、一人の人間として向き合うこと。

それこそが、それだけが、私たちの誇りであったはずなのに。

ハイブリッドは、デジタルとアナログの掛け合わせなんかじゃない。
それは私たちの努力と誇りへの敬意を欠いた、傲慢から生まれた響きの良いただの横文字だ。
わかるだろうか。私たちが義憤しているのは、ハイブリッド授業をすることに対してではない。私たちが無理を強いられながらも、曲がりなりにも、できないなりにも、それでも子どもたちのためを思って、彼らの豊かな未来のために積み上げてきたものを、響きの良い言葉をもって踏みつぶしたことに対してだということを。
理解できるだろうか。時間がない、準備の時間も、考える時間も。そんな中で、付け焼刃で考案したものを子どもたちに提供せざるを得ない悔しさを。中途半端なものを手渡しながら、子どもたちの未来を願う切なさを。
見えるだろうか。あなたの言葉が踏みにじったものが。そして、教師という誇りと、学校教育への熱意と、ひたむきに戦ってきた私たちの信念が蔑ろにされたことへの、尽きることなき心の涙が。

信じていた。学校教育の力を。
信じている。子どもの力を。
信じたい。子どもたちの豊かな未来を。
信じよう。私たちが、まだ戦える力をもっていることを。

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