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この国、なんか生きづらくね?

ノーベル賞受賞後の5日、所属するプリンスントン大で会見を開いた真鍋氏。記者から米国籍を取得した理由を問われると、日本では周囲との「同調」が求められるのに対し、米国では周りを気にせずやりたいことができるから、などと回答。そして、こんなコメントも残した。

「日本に戻りたくない理由の一つは、周囲に同調して生きる能力がないからです」
(上記記事より抜粋)

ここでは主に、
 1. 日本では周りを気にしなければならない
 2. 日本人は周りに流されるあまり生きる力を失っている
という2通りの批判があると考える。

今日は、日本の同調圧力について、この二つを軸にして考えていく。


話題書コーナーでの勘違い

価値多様性が叫ばれ、「自分らしい生き方」が強調されるようになったのはここ最近のことのように思う。書店の話題書コーナーを見れば、「ラクな生き方」とか「自分のまま生きる方法」とか、そんな文言の表紙がズラリ。それを眺めると、ありのまま生きていい世の中、人と違っていい世の中になったと危うく勘違いしそうになる。

しかし、ここではこう考えてみたい。基本的に話題書コーナーにある本というのは、よく売れるからそこにあるのだ。よく売れるということは、当然多くの人がそのような本を必要としていると解釈できる。果たして、「自分のまま生きられる世の中」において「自分のまま生きる方法」などというタイトルの本を多くの人が必要とするだろうか。当然答えはNoである。

やはり、一般に言われる通り、日本ではまだまだ「みんなと一緒がいいね」「出る杭は打たれる」という価値観が強いように思われる。

特に高校時代、それを感じることが多かった。私の体験談をお聞きいただきたい。


質問しただけなのに…

高校3年生になって一番最初の生物の授業の時のこと。私は高校に入って以来生物の授業でノートをとる習慣がなかったので、いつも通り教科書に書き込みをしながら授業を聞いていた。すると、「ノートは?」と先生から言われたので、ノートを取ったのだが、授業が終わった後に、先生にノーとをとる理由について質問しに行った。特に反論したり反抗するつもりはなかった。むしろ、ただ何となくノートをとるよりはよほど健全だとその時は思った。しかし、質問を終えて教室に戻ったら、なぜか批判の嵐。

「やってんなお前」
「先生に反抗しただろ」
「協調性ない」

正直辛かった。仲の良かった友達が「いや、反抗ではないんじゃない?」と声をかけてくれたのが救いだった。

周りを気にして、価値観をみんな合わせるのは、本当につらい。


与えられた課題をキチンと提出しなさい

これは一見正当な生徒への指導に聞こえるかもしれないが、高校生の私はこれに対して疑問を抱いていた。一人ひとり抱えている弱点も違い、個性もそれぞれな生徒が、なぜ同じ課題をやらなければならないのか。”自律せよ”と求めるのであれば、何をやるのか逐一提示するのではなく、何をやるべきか自体を考えさせるべきではないのか。

正直、試行錯誤を重ねながら、何をすべきかを考えて勉強していた身から言わせれば、学校から一律で出される課題は、教材というより障壁となっていた感覚の方が圧倒的に強かった。

もちろん、自分で考えて実行したことがすべて正しいと思い込むつもりは全くない。失敗することだって十分に考えられる。しかし、失敗こそが財産になるのではないだろうか。「失敗は成功の母」ではなかったか。

今の学校はどうだろう。私の個人的な印象や体験に基づくものにすぎないのだが、もし自己流でやって失敗しようものなら、周りからの評価は最悪である。

「言った通りにやらなかったから失敗するのだ」
「なぜ素直に言われたように実行できないのか」
「時間と労力の無駄だ」

学校とは、子どもたちが失敗を恐れずに自ら考えて行動できる場所、そして、失敗してもいくらでもやり直せる場所…であると信じたかったのだが、もはや今の学校では、子どもたちは安心して失敗できないらしい。試行錯誤や失敗が許されなければ、それは、「周りと同じことをやっていればOK」であるという価値観を生み出し、生きる力を奪うことにもなるだろう。


受験期の葛藤

大学受験を控えた秋ごろ、恐ろしく集中力が落ちた。受験勉強などろくにできる状況ではなかった。しかし、学校の自習室にいる周りのみんなはちゃんと集中している。今考えれば、あの時は極度の慢性疲労を抱えていたので、ちゃんと休むべきだったと思うが、当時の自分はそうは思わなかった。

やらなければならないのに、なんで自分だけ…
ずっとそんな呪縛から逃れられずにいた。

自習室や学校のクラスのいいところは、同じようなもの(志望校は違えど、おおまかにはみんな大学合格)を目指す友達と高めあえるところだとよく言われる。それは良い意味ではピアプレッシャーと捉えられるが、同調圧力とほとんど同質なものであることを忘れてはならない。

自分には自分の闘い方がある。周りに合わせる必要などない。上手く同調圧力を利用することは大切かもしれないが、自分にとって不利益をもたらすものだとしたら、それに抗う姿勢や集団から離れる勇気も、時に必要ではないだろうか。

そうはいっても、学校という閉じた空間にいると、逃げ場はほとんどないも同然だ。そんな学校だからこそ、逃げ場は意図的に作る必要がある。


ひだまり

受験期には頻繁に相談室に通っていた。でも、私の学校は相談室って言わなかった。”ひだまり”って言った。ここが、私にとっての避難場所だった。

内部はいくつかの部屋に分かれ、和室やソファもあった。全然学校にいる気がしなかった。そんな部屋でいつも保健体育担当の先生と話すのだが、ついつい話過ぎてしまうのがいつものオチだった。

そんなひだまりである時先生から言われたことばは、今でも覚えている。

自分のペースでゆっくり進んでいいんじゃない?
速く行っちゃう人が気付かなかった景色が見られるかもしれないし、道端に咲いてる花に気づくかもしれない。

一字一句正確に覚えているわけではない。しかし、この時の言葉は確実に救いになった。

自分は自分のままでいい。ようやくそう思えたのは高校卒業を目前にしたころだった。


ほっとく

あれをやれこれをやれと一律に課題を出したり、画一的な価値観を提示することは、同調圧力を生み、さらに「周りや上の言うことに従っておけばよい」という価値観をも作り出す。それは日本人の生きる力を奪うことになるのではないかと危惧している。

端的に言えば、「ほっといてほしい」という言葉が一番しっくりくる気がする。

自分が不利益を被らない限り、他人がどう生きようとその人に勝手だ。自分には理解できなくても、その人にはその人なりの考えがある。最近まで中高生だった身から言わせれば、それは子どもでも一緒だ。子どもだって子どもなりにいろいろ考えている。そして、自らの意思においてそれを実行したいという欲求を持っている。

私には理解できないけど、あなたはそうしたいんだね。

人間の価値観も含め、この世界のすべてを理解しようなど不可能な話だ。もう少しこういうウイットさがあってもよいと思う。


まとめ

周りに合わせなければならない雰囲気、それに由来する生きづらさや束縛感、周りの人の生きる力のなさは私自身共感できる部分が多い。

私自身、自分を軸にして生きられるようになってきたのはつい最近のことだ。なんだかすごく心が軽くなったような気分だ。

日本人全員が生きる力を持ち、もっと自分らしく生きられるようになり、話題書コーナーから「自分らしい生き方」などといったタイトルの本が見られなくなることを願っているが、それはまだまだ先の話のようだ。

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