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縁側物語

榮志が栃木の山奥を出たのは中学卒業と同時で、それ以来実家に戻らずに六年が経っていた。

八人の兄弟姉妹とは手紙のやりとりはしていたけれど、榮志が実家に寄り付かない理由を知るのは二歳下の弟義光だけで、正月や盆に実家に集まる皆の口から「榮ちゃんはなんで帰って来ないん?」が発せられる度、義光は心苦しくなった。

ある年の盆。義光は榮志に電話する。

「あんちゃん、俺はもう耐えられないよ。一時間でもいい。頼むから次の正月は戻って皆に顔だけでも見せてくれ。ねぇちゃんの子も大きくなったし、もうすぐ三人目も生まれるんよ。」

「誰にも絶対に言うな。」
たったそれだけの口約束を守り抜いている義光に対する義理もある。
でも、それ以上に姉が産んだ自分の甥姪という存在に会ってみたいという想いが、初めて榮志の中に芽生えた。
「分かった。次の正月は帰る。」

正月。
榮志は神奈川土産の蒲鉾とシウマイを大量に用意し、買ったばかりのブルーバードで栃木に向かった。

家族の歓迎を受け、久しぶりに食べる母の料理に懐かしさを感じ、夜は旧友と酒を酌み交わし年甲斐無くメンコ遊びに興じ
「二日も居ればじゅうぶんだ。」という考えはたちまち消え、正月休暇の全てを栃木で過ごすと決める。

一月四日。
榮志は田沼のお茶屋に嫁に行った姉を訪ねた。
甥は四歳、姪は二歳と聞いていてる。
甥にはブリキ製のスポーツカーの玩具を、姪には白いドレスを着た西洋人形を土産に用意していた。

姉は泣いて喜び、榮志の手を強く握ってなかなか離さず、姪甥は榮志の脚にしがみつき無邪気な笑顔を与えてくれた。

「榮ちゃん、今夜はここに泊っていって。」
義兄の好意を受け、その夜は姪甥と共に眠る。

翌日の早朝。
榮志は義兄と姉に告げていた通り、姪甥が眠りから覚める前にお茶屋を発った。

榮志は姉が嫁入りする時
「お茶屋の仕事でも何でもするから俺も一緒に連れてって!」と懇願したが、そんな事が通用するわけも無く人生で初めての絶望を味わった。
その時の感情は榮志の心にずっと残っていて、姪甥に自分の様な想いをさせたくはない。

栃木で過ごす最後の一日は妹二人をブルーバードに乗せてドライブし、畑仕事を手伝いのんびり過ごす。
手紙のやりとりをしていたとはいえ、六年会わずにいた兄妹の距離感はそれなりに不自然だったが、気付けばそれはしっかり埋まっていた。

別れは辛い。また会えるとしても辛い。
出会わなければ、再会しなければ、それは回避できる。
それが榮志にとって一番味わいたくない感情だ。

「神奈川に戻る前にサッパリしていけ。」
母親が昼間にも関わらず薪風呂を用意をしてくれた。
昼風呂など贅沢な時代。
最大限の母愛だった。
「神奈川に帰る」では無く「神奈川に戻る」と言った母の言葉で榮志の心で罪悪感が騒ぎ出す。

出発前。
様々な思い出がある縁側に腰かけ妹と話す。
妹との距離感は既に元通り。


「あんちゃん、髪の毛薄くなったんべ?ねえ、おかぁちゃん!あんちゃん、むかしはもっと生え際が下だったさぁ、あははは!」

「八重子、失礼な事を兄さんに言っちゃいけない。髪が薄くなっても兄さんは兄さんなんだから。八重子、兄さんに足を向けるのはやめなさい、お行儀悪いでしょ。」

「だって薄いーーーーーーん!あんちゃんむかしは凄くカッコよかったのに!どうしたらこんなに別人みたいになるん?あははは!」
「やめなさい八重子!かあさん、本当に怒るよ。」


距離感が無くなるというのは時として残酷でもある。
この時の榮志の感情は誰も知ることはない。

「一応言わせてくれ、俺はもう肩の荷をおろしたい。あんちゃんが実家に帰らなかった理由は、腹違いのねぇちゃんに冷たく接した俺たちの母親が許せなかったからだ。あんちゃんだけだよ兄弟姉妹の中で、そんな事思ってたのは。ねぇちゃん自身も知らない。あんちゃんは優しいよ。ねぇちゃんを本当に大切に思ってたんだ。俺は口止めされてたから今日まで誰にも話さなかった。だけど、お前だけには言っておきたくてさ。それはずっと前から決めてた。」

義光が長年の約束をやぶり、それを告げた相手は榮志の養子である来実子にだった。

どういう意図があったのかは分からない。そんなものは無く、ただ自分が楽になりたかっただけなのかもしれない。

榮志と義光の口約束は七十年以上保たれ、榮志の葬儀の後に無効になった。

髪の毛があった頃の榮志


おとう
本当に本当に有難う 

来実子









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