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怒りの必要性

公務員に対して、あなたたちの給料は税金から支払われているんだから、もっと市民に対して優しくしろ、とか、ご飯を奢ってもらった人が、奢ってくれた公務員の相手に対して「それは私が払った税金でもあるからね」って言う人までいるという話を聞いて、面食らった。まあ、世の中には他にも似たような話がゴロゴロ落ちているわけですけれども、誰が誰にどんなことを言ってるのかとかいう内容はどうでもよくて、人が人にこうすれ、ああすれって言う行為はみっともないなって思う。そういう発言してる人のエネルギーが私は好きじゃない。そんなことを言われた、そういう風に私は思うんだ、そういうことがあるみたいなんだよね、とかそういう話題を、当事者からであろうが、噂だろうが、私がどんな形で触れるのか、知るのかは関係なく、一切聞きたくないよ。へー、って思えないんだもん、そうやって受け流せるほど、人間できてない、というか、心のない人ではない。少なくとも私の中にも、怒りの機微が現れて、それに対して嫌気がさす。私にも傲慢な心があるっていうのを否応なく突きつけられるから、腹が立ってくるんだよ、その話題にというより、自分に腹が立つから、聞きたくない。私、なによりも怒りが好きではないんですよね。怒りが必要になる場面て、あるんですかね、私はない気がする。怒りってなんのためにあるのかな。何かを解決する、っていうことに対して真逆の場所に存在していると思う。怒りに任せたってなんの役にも立たないこと、何度もそういう場面を見てきたし、そういう人も見てきたから、その人自身を破滅させるのが怒りの目的としか思えてならない。それでもふとした隙に湧いてくるから、私を不快にさせる。あなたのせいとか、話題のせいというより、この世界に対して、私を怒らせないでと言いたいです。

   何に対しても動じない人になりたい。問題提起されるような出来事とか、話題を目の前にして思うのは、自分の中の正しさの基準というのが私は曖昧、もしくはないから、判断ができないなってことだけ。悲惨な事件にしても、加害者、被害者ともにそれぞれ事情があって、人生があって、それぞれの正しさがあって、当然それはすべて私の想像できる範囲外にある。だから、加害者だけがすべて悪いのか、とも言い切れないし、そういうことをなんの関係もない私が踏み込んだり、判定すること自体、お門違いだと思う。優しさや正しさを知っているふりをするのがいちばん残酷だ。程度の甚だしい業務上の過失で罪に問われている人が、詰問されているのを見て、とか、炎上してしてる話題にあやかって、関係のない人たちまでああだこうだと言い合って、避難するけど、そのエネルギーというかすごいですよね。悪いことをした人に対して、なんの関係もない人までその人を責め立てることができてしまう、それって異常なことじゃないのか。悪いことをするのは悪いですよ当たり前ですよ、でも知らない人が知らないところで悪いことをしたというだけで、自分からわざわざ関わろうとする人がたくさんいる。悪いことをしたというだけで、関係のない人が、その人を責めていい理由にはならないんじゃない?って思うんですけど、どうなんですかね、私は冷たい人間ですかね。そうだと思います。

   それにですよ、100人が100人、誰から見ても明らかに悪いことだと言い切れない話題について、明らかに悪いことだ、非難してしかるべきだって平気で圧力をかけてくる、人の倫理観を根こそぎ覆そうとしてくるやり方が、しんどいですね。え、それって差別的なことなの?って私だったら思うことにも、それは差別だ!って言ってる人がいて、それもたくさんいて、マジョリティってもうそれだけすごい強大で、安心して頼れるし、正しい気がしてくる、怖いですね。簡単に洗脳させられてしまうわよ、、。そうは思わない少数派の私といえば、あなたたちの考え方とか発言の方がよっぽど差別的じゃないの、、って思うのでした。強く生きよう。

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