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愛も優しさも役立たず

あんなこと言ってるけど実際はこうに違いない、と相手を疑ってしまえるって、異常なことだ。人にそう思わせるような行いをしてきたのだから仕方がないと、人は言う。疑うことこそ正しいと、熱くなれる。住んでいる地域、国、言葉、年齢、時代を軽々と超えて、凄まじい勢いで伝染していく。私たちが本来、正しくないとすることでも、相手がしてきたのなら、その相手にやり返すだけのためなら、正しくないことをするのが正しさになってしまう。でも本当に、私たちはそういう態度でいいのだろうか。私たちが信じてきた正しさに対して、そういう態度でいいのだろうか。向き合わなければいけないものを、見誤っている気がする。正当化できる理由を十分に備えていても、どれだけの人が言おうと、それはもとから、わたしたちの正しさだったわけではないはずなんだ。

疑われるような言動をして信頼を失ってしまった人だからといって、その人のこれからの発言や態度のなかに信じてあげたくなるような、信じてほしいと聞こえてきそうな声や、かげろうのように向こう側にいる相手を微かに揺れ動かすものすら、ないと、私たちは言い切っていいのだろうか。今度こそ、本当にそう思っているのかもしれないという可能性すら少しも考慮してはいけないのだろうか。それが、わたしはなんだか苦しいよ。愛だって、人を殺すじゃないか。それでも、たくさんの人は愛は素晴らしいと信じることがでる、世界を救うんだと声高らかに持ち上げる。それと同じことだ。

実際、微塵もなかったとして、わたしを裏切るつもりでいるのだとして、わたしはそれでも信じたい。それが愛だの、美しいだの、優しさだなんて簡単に言うな。そんな世界が嫌いなんだ、どれも役立たずだ、それがどんなに素晴らしいことなのか散々教えられてきた、見せつけられてきた、でも素晴らしいという人がいるだけだった、愛も優しさもそこにはなかった、だからそんなものはいらない。わたしが信じるのは、相手のためにではなく、それがわたしにとっての正しさだから。誰のことも疑いたくはないから、それだけだ。わたしは世界の消耗品でも、君たちの消耗品でもないんだ。世界は変わらない、相手は変わらない、そして裏切られて死ぬのなら、あなたはわたしを殺すべきではなかったと、どんな死に方だろうと、死んでいくわたしに、死ぬべきではなかったと、そう言ってあげられるから、きっとわたしは大丈夫だ。だからもう、たのむからわたしに話しかけるな!なにも見せるな!

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