私の変態の父#3 ーソーシャルネットワークによって覚醒するー

2017年に#metooが黒船のように日本に到来したとき、日本ではアメリカ程のムーブメントは起きなかったとよく評される。

しかしそれ以降、この国でも性暴力被害者達の勇気ある告発がゆっくりではあったけれども確実に続いたのと同様、Twitterなどのソーシャルメディア上では、私たち性的虐待被害者は、それぞれの被害がどんなものだったかを投稿するようになった。

お互いに被害を共有し合うことによって、はじめて、ほんとうにはじめて、私たちは、

「自分達ががされたことは、まぎれもなく性暴力だったんだ」

と気づきはじめたのだ。

私自身はその波に乗るのが遅く、Twitterを始めたのは2018年の夏、一般的には人生の実りを得る年齢である49歳の時だった。

波に乗り遅れたせいで、私は、私自身が叔母のいう「変わり者」なのではなく、家族・親族のほうが常軌を逸していたという事実に、13歳で実父から強制わいせつ被害にあってから約40年後に、やっと気づくことになった。

私は、Twitterで、自分が受けた行為は「なかったこと」にしていいレベルではない性加害であったこと、私の家族・親族が申し合わせ「頭がおかしいこの子が不憫で可哀想ずっと気にかけている自分達は優しい血族」というフリを何十年も全員で演じ続けてきたこと、私が抱えてきた強烈な罪悪感はまったく必要ないものであったこと、また、私の人生は半分くらい過ぎてしまいもう誰も責任を取ってくれないこと、などを瞬く間にを理解した。

この時点で、私を襲ったものは猛烈な怒りだった。

父、姉、妹、そして親族たちに対する強烈な怒りだった。

「よくも私を騙したな」という怒りだった。

私はTwitterによって、今まで目隠しをされていたものが取れて、自我が覚醒したのだ。

それまでは、姉妹の中でいちばんどんくさく、可愛くもなく、従順で何をされても黙り込む愚鈍な牛のような私が、そういう私の性格が、父や姉たちにいわゆる搾取されていたのだと気づき、年齢的には遅すぎる位ではあるが、やっと、自我がむくむくと覚醒してきたのだ。

私はTwitter上で、その怒りを爆発させた。

私はずっと、私のほうが常識知らずで、わがままで、無知で、不道徳で、生きる資格もないと思っていた。ところが、常軌を逸していたのは反対に、加害者である父、父をかばう姉と妹、親族のほうだった。

何十年も理不尽さに耐えてきた私は一体どうなるのか。報われる方法はない。私の輝かしい時代になるはずだった10〜50代を返せ。

それは、身体の中心に放射性物質の塊を抱えているかのような、私の身体も精神も壊すほど強烈な、怒りだった。

もちろん、それまでなんとか騙しだましやってきた仕事もその頃から満足にできなくなった。

自分が壊れていくのが怖くてカウンセリングと精神科と心療内科をめぐり、それでも飽き足らず、確固たる言葉を求めて女性センターの相談室や弁護士事務所を片っ端から、仕事もせずに取り憑かれたようにたずね歩いた。自分は間違っていないと思いたくて、単身用賃貸アパートの暗く古い部屋で、一人性暴力に関わる法律や条例を検索して何時間もパソコンに向かって過ごした。

とにかくあなたは悪くないと理屈で説き伏せて欲しくて、性暴力の電話相談や法律相談にも、あますところなく電話した。電話代は数万円にもなった。

私は、友人と楽しく語らう余裕もなく、怒りという強い狂気に全身を乗っ取られ、常に焦燥感で疲弊し切っていた。処方された抗うつ剤や向精神薬を自己判断でめちゃくちゃな方法で服用した。

私が体験したこの凶暴な嵐のような4年間ほどの期間は、性的虐待の回復の過程というものがあるのならば、その過程の中で急性期と読んでいい時期であったと思う。

この急性期は、私にとって非常に辛いものであった。いや、おそらくどの被害者にとっても、このような急性期をたった1人で、誰の支えも受けずに迎える事は、オールオアナッシングのかけのようなものである。

しかし、私が自分の経験に真っ正面から向かい合うこの急性期を乗り越えたことによって、私の人生そのものに、うまく性的虐待を1つのピースとして埋め込むことに成功したと思う。

性的虐待や性暴力被害に関しては、被害があまりにもつらすぎるために、被害があったことを本人が記憶から消してしまい、覚えていない状態で生きていくこともある。いわゆる「記憶に蓋をする」と呼ばれる状態だ。

私の場合、厳密には記憶に蓋をしていたわけではない。

13歳だった私に父が突然後ろから覆いかぶさってきた時の父の息づかいの感触などを、私ははっきりと覚えていたし、父が私に対して行った行為だけでなく、父が他の女性に対しても性暴力未遂を起こしたことを覚えていたからだ。

それでも、私はそれまで、父が行った性的虐待について、一度も深く追求しようとはしなかった。

私が家族・親族に、父から受けた性的虐待のことを何度話しても、彼らはそれについて硬く口を閉ざし、すぐにまったく違う話題に変えてしまうか、私のうつが心配だという流れに転換させてしまうことについても、私はその2018年までずっと、彼らを善意の人だと自分を納得させようとしていたのだった。

私は、他人に対しても対人関係を良好に保つことは子供の頃からあたりまえのように難しく、当然私の世界は狭く、一方で「世間」は恐ろしいもので「家族」だけがいざという時に頼るべきものだと思っていた。

その家族から爪弾きにされた自分は、この恐ろしい世間でも家族でも一人として味方はいない。普段ニコニコしてくれる人たちはみんな社交辞令で、いざとなったら私は一人だ。そう思っていた。

それが、Twitterでは違った。

それまで私が誰も興味を持たないだろうと思っていたTwitterでの私の投稿に対し、驚くべきことに、まったくの他人が、多くの共感や、私の父や家族に対する怒りのリプライを何十何百もつけてくれたのだ。

こういったあたたかいリプライが、私のゆがみにゆがんだ、「怒りを感じている自分が悪い」という誤った認識の幾重にも重なった呪いを、少しずつ解いてくれた。

Twitter上で、いくら匿名とはいえ実際に生きている大勢の人間が、私に対して何百何千といいねを押し、「世間」「家族」から黙殺されてきた私の性的虐待に対して、心から寄り添ったリプライを返してくれたのだ。

また同時に、わずかではあったが、親に対する告発や性的な被害の告発をたたく人たちからも、ひどい言葉で中傷された。

「私怨だろ」「これだからフェミは」。私のプロフィールはスクショを撮られ、攻撃の言葉とともにポストされた。

私の父、姉、妹、そして親族たちも、結局、こちら側に属する人間だったのだ。Twitter上とは違い、彼らは思っていることを言葉に出さない。それは、リアルワールドでは彼らの理屈は通用しないことを彼らは心の底では知っているから。言葉に出すか出さないか。それだけの違いだ。

誹謗中傷を含むリプライに関しては、私は幸運なことにソーシャルネットワーク上での攻撃に対して比較的強いタイプの人間だったので、それぞれのツィートをそっとミュートにしただけで、特に問題は何も起こらなかった。

しかし近年はこうした攻撃により、勇気を振り絞って性暴力被害を告発した女性が、莫大な精神的被害を被ったり、自死に追いやられたりすることを考えると、
少し違っていたら、私も確実にもっときつい状態に陥っていただろうと思う。

このような様々な反応を浴びながら、それでも私は、ソーシャルメディア上で怒りを表出し続けた。

私の怒りはとどまるところを知らなかった。

私が受けた被害や家族のありようを(できるだけ客観的に)記述し、性的虐待が起こる過程の機能不全ぶりをぶちまけた。

一年ほど経つと、私の怒りの対象は、性的虐待だけではなく、性的虐待を起こさせる日本特有の構造的な問題にまで広がっていた。

私は、性暴力の刑法改正の必要性を叫び、女性蔑視を弾劾し、萌え絵にゾーニングを主張して、おおかた共感のリアクションを得た。私はもはや立派なフェミニストだった。

また、性的虐待や性被害のほかの被害者のさまざまな告発を見つけて、私自身も共感のコメントを書いた。DMで意見を交わすこともあった。

このように、私の世界はソーシャルメディアによって一気に広がったのである。

狭い狭い人間関係である家族・親族たちが「フリをする」ことによって私に信じ込ませてきた「私が受けた性的虐待は、ただのいたずらだ」という洗脳は、同じ被害を受けた生身の人たちとリアルな相互のやりとりをすることによって、一枚一枚薄皮を剥ぐように、解けていった。

これは巨大メディアにはできない。それは、巨大メディアが相互の交流を可能としないからではない。巨大メディアは性的虐待の記事を忌避するからだ。

それは、「シモのことを書くと、わが新聞社の品位が下がるから」というピントのズレた虚栄や、「親や家族は絶対的に正しい存在だ」と信じている多くの読者層を手放したくないからなのだと私は思っている。

当事者同士がつながれる機能こそが、ソーシャルメディアの最も貴重な真価だ。

このように私は、2018年から約4年かけて、Twitterに、私の家族・親族からいわゆる『ガスライティング(思い込ませること)』された呪いを解いてもらった。

2024年現在、今のxはイーロンマスクによって無法地帯化が進んでおり、次の世代はおそらくもう私が受けたような恩恵は得られないだろう。ソーシャルメディアとは、きっとそういう花火みたいに短命な性質があるのだろう。また新しいソーシャルメディアが花開く。

私はTwitterの古き良き黄金時代に駆け込みで間に合い、人生の奔流の中大きく舵を切ることになった。ラッキーなことだったと思う。

私の投稿に触れてくれた方、この出会いをシェアしてくれてありがとう。

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