水俣コラム

NPO法人水俣フォーラムが運営する「水俣コラム」です。水俣と現代をつなぐコラムを毎月第…

水俣コラム

NPO法人水俣フォーラムが運営する「水俣コラム」です。水俣と現代をつなぐコラムを毎月第2・第4金曜日午後4時に更新します。 HP:https://npo.minamata-f.com/

最近の記事

第22回 敗れはしても 服部直明

 この四半世紀、水俣フォーラムで仕事をしている。わずか数名からなる事務局の職員であり、経営の一端を担う立場だ。  無念だが、2023年度も大きな赤字を出してしまった。3年連続の赤字決算で、特にこの2年は続けて約600万円の赤字になった。会員会友からの借入金1300万円により、この10年は資金ショートに陥ることなく活動を続けてこられたが、資金繰りの状況によっては、さらに借入をお願いしなければならなくなるかもしれない。  大きな赤字決算になりそうだとわかった時は、背筋がすっと寒く

    • 第21回 「減災」でなく「増災」? 上野千鶴子

       東日本大震災が起きたあとに石牟礼道子さんを訪ねたとき、彼女がただちに言ったのは「フクシマはミナマタのようになるでしょう」という不吉な予言でした。あの大震災と原発事故のあと、「ニッポン、変わらなくちゃ」という気分に満ち満ちていたとき、わたしは『婦人公論』の月1回年12回の連載に、12人の女性を選んで、これからのニッポン、どうしたらよいのでしょうと、智恵を求めて対談しました。その連載が本になったのが『ニッポンが変わる、女が変える』(中央公論新社、2013年)です。その最終回に、

      • 第20回 自ら恥じない心で 杉田俊介

         川崎市で障害者介助の仕事を10年ほどしていた。その頃、土本典昭さんの作品をよく観ていた。水俣の「外部」の非当事者である土本さんが、水俣の患者さんたちにいかに向き合ったか。その問いと、自分が日々の仕事の中で出会う障害者にいかに向き合えばいいのか。その問いを重ねていた。土本さんの原点には、「自ら恥じない心で」という感覚があった(『[新装版]映画は生きものの仕事である』)。  相模原の障害者殺傷事件のあと、筑豊地方にある「ちくほう共学舎虫の家」という障害者を支えるNPO法人に招か

        • 第19回 法を学ぶこと 石川慎司

           「法を学ぶことは、正義と社会を考えることだ」  この言葉を受け取り、水俣フォーラムのインターンを修了して13年。弁護士という職について丸10年になった。現在は地元の三重県四日市市に戻っている。水俣病事件の裁判に関わっているわけでも、人権活動に熱心に取り組んでいるわけでもないが、企業側の仕事ばかりをしているわけでもない。一般の市民の方の相談を受け一緒になって問題を解決する、普通の弁護士である。  水俣病に関心を持ったのは2007年のことだった。大学の教養講座「M I N A

        第22回 敗れはしても 服部直明

          第18回 まだ足りない 森達也

           テレビドキュメンタリーの仕事を始めた20代後半のころ、日本のドキュメンタリー史において、水俣病はとても重要なアイコンであることに気付いた。とにかく数が多い。ひとつのジャンルと言えるほどに、多くの作品が作られ続けてきた。しかもテレビだけではない。映画も数多い。さらに過去形ではなく現在進行形だ。  その理由は明らかだ。水俣病の歴史は、この国の高度経済成長とほぼ同時期に始まった。いわばポジに対するネガだ。つまり水俣病の患者たちは、国策の被害者だ。  それだけではない。特に激しかっ

          第18回 まだ足りない 森達也

          第17回 記憶の消し方 斎藤美奈子

           足尾鉱毒事件の舞台になった栃木県の旧谷中村は現在、渡良瀬遊水池という巨大な湿地帯の一部になっている。足尾銅山から放出された鉱毒水や鉱毒ガスが周辺の山や川を汚染。農作物にも深刻な被害が及んで、下流の村々は廃村。鉱山の操業停止を求めて田中正造とともに最後まで闘った谷中村も、1906年に強制廃村となった。  今この地に立つと「国破れて山河あり」「つわものどもが夢の跡」みたいな気分に襲われる。わずかに残った墓以外に谷中村の痕跡はなく、「ハートランド」という愛称の公園が広がるだけ。

          第17回 記憶の消し方 斎藤美奈子

          第16回 あの日のウニから 梁取優太

           ウニが苦手だ。食べられないわけではないが、自分から進んで食べることはない。しかし一度だけ「これは!」と感じたウニがある。  大学院生だった6年前に初めて水俣を訪れた。海岸で貝拾いをした際、1匹だけウニがとれ、地元の方が味見させてくれた。学生7人ほどでスプーンの先にほんの少しずつであったが、プルンとした食感で、生臭さはなく、海水の塩味もほんのりあって、その美味しさに驚いた。以来、何度かウニに挑戦してみたが、あの味を超えるものはない。  石牟礼道子の『食べごしらえ おままごと』

          第16回 あの日のウニから 梁取優太

          第15回 シラスが証すこと 斎藤幸平

           「ご飯もっとちょうだい!」。普段は子どもたちがご飯をなかなか食べなくて苦労することも多い夕食の時間も、11月になるとスムーズになる。炊き立ての白いご飯の上にに杉本肇さんのシラスがたっぷりと乗っているからだ。東京のスーパーでは決して見つけることができない、ふっくらとしてやわらかい大きな釜揚げシラス。我が家の食卓に欠かせない一品である。  水俣を初めて訪れたのは、2年前。毎日新聞の連載「斎藤幸平の分岐点ニッポン」の取材でのことだった。その時に、吉本哲郎さん(元水俣病資料館館長)

          第15回 シラスが証すこと 斎藤幸平

          第14回 〈その後〉を生き延びること 小松原織香

           2015年の秋、私は初めての水俣訪問に向けて土本典昭監督『水俣 患者さんとその世界』を視聴した。映画の終盤、チッソの株主総会で、患者の浜元フミヨさんが両手に親の位牌を持って社長に迫った。水俣病で両親を亡くした苦しみを訴えたのだ。 「わかるか、おるが心。おるが心、わかるか」  切なる叫びを聞きながら、私は身動きできなかった。スクリーン上の患者さんに、同情ではなく自己投影をしていた。  私は19歳のときに性暴力の被害に遭った。その後、七転八倒しながら日常生活を取り戻し、大学院に

          第14回 〈その後〉を生き延びること 小松原織香

          第13回 50年前に私が見たもの 山田 真

           1971年12月12日ごろだったと思う。  もう50年以上も昔のことになるが、私にとってその後の生き方を決定づけるような出来事があった。私たちが組織していた青年医師連合東大支部に依頼が来たのだ。「チッソ本社に水俣病の患者さんたちが坐り込んでハンストを始めた。患者さんたちの健康管理が必要なので往診してもらえないか」という依頼だった。  当時の私は、69年の東大闘争敗北後、いくつかの医療機関で診察をしながら、森永砒素ミルク中毒被害者の闘いを支援したり、三里塚空港反対闘争に応援

          第13回 50年前に私が見たもの 山田 真

          第12回 二度目の衝撃 郡山リエ

           67年前、7歳の私は周りで起きている事の意味を理解できなかったせいか、わずかな記憶しかない。百戸ほどの村で頻々と墓地に向かう葬列。講堂で受けた変わった身体検査。海水浴の禁止。漁に出られない祖父は焼酎浸りで祖母に暴力をふるった。そして母の店では患者さんの入店を拒否したり、お金を手で受け取らず消毒したり。  母の店での対応が患者差別と受け取られていると知ったのは、学生時代に『苦海浄土』を読んだ時だ。衝撃を受けなかったはずはないが、この時の記憶は私の中で深く沈み込んだ。この本だと

          第12回 二度目の衝撃 郡山リエ

          第11回 「公」の崩壊 佐高信

           最近出した森功との共著『日本の闇と怪物たち』(平凡社新書)の第四章は竹中平蔵である。  「国際政治学者」と称している三浦瑠麗が、夫が経営する太陽光発電投資会社の問題で集中砲火を浴びたが、もっと問題なのは竹中だろう。大体、メディアが竹中を「大学教授」と書くのが、まず間違いである。規制緩和ならぬ規則緩和の政府の会議の委員をしている時も彼はパソナの会長だった。そして非正規雇用を推進する発言を繰り返して、パソナの拡大に貢献したのである。これ以上の利益誘導はない。  私は2020年に

          第11回 「公」の崩壊 佐高信

          第10回 語りえなさを宿す旅 木村友祐

           水俣駅の近くの歩道で、猫が一匹、そろりと建物の隙間に入っていく。水俣病の爆心地とも言われる「百間排水口」のそばでも道路の端で寝そべっている猫がいたし、隣町の漁港でも悠然と歩き去る猫を見かけた。ひと月前(6月)、初めて水俣を訪れたときのことだ。  かつてこの地では、おびただしい数の生きものが死んだ。猫はおそらく一度全滅したはず。とすれば、ぼくが見た猫たちは、海に溜まった汚染物(有機水銀を含んだ海底のヘドロや魚介類など)がおおかた取り除かれた後に持ち込まれた猫の子孫なのかもしれ

          第10回 語りえなさを宿す旅 木村友祐

          第9回 水俣闘争の日々と父 山田梨佐

           父が亡くなって半年が過ぎた。私の父渡辺京二は、1969年から73年にかけて水俣闘争が最も激烈だった時期に支援運動に深く関わった。その頃支援に関わった人たちが家に来られることも多く、熊本大学の学生などの支援者たちが来ると、夜遅くまで父の部屋からにぎやかな声が響いていた。私もそうした人々の話などから、父が闘争に関わっていることを自然に知るようになった。  父が水俣病を告発する会や支援者の人びとと、厚生省の一室を占拠して逮捕されたのが70年。私は小学校の5年生だった。父が逮捕され

          第9回 水俣闘争の日々と父 山田梨佐

          第8回 思考の源泉としての水俣 藤原辰史

           どうしたって戻ってくる。どんな文献を読んでも、どんな講義をしても、どんな論文を書いても、現代史を研究する私の思考はいつも水俣に還ってくる。たった2回しか訪れたことがない水俣に。  昨日は、さつまいもの歴史に関する講義をした。石牟礼道子さんの『食べごしらえ おままごと』を紹介し、いつの間にかチッソ本社前での座り込みの時に彼女に女学生たちが買ってくれた貧相な「おさつ」の話にスリップしていく。先週は、拙著『分解の哲学―腐敗と発酵をめぐる思考』を土台として、自然界の物質循環に関する

          第8回 思考の源泉としての水俣 藤原辰史

          第7回 光と風が通る場所で 磯野聡

           私が水俣フォーラムの会員になったのは2006年の年末、16年ほど前のことです。教員として勤務していた埼玉県の高校で人権教育の係になったことがきっかけです。水俣フォーラムのお力を借りて大阪府在住の患者さん坂本美代子さんと小笹恵さんの講演会を開くことができました。会員になってからは石牟礼道子『苦海浄土』の読書会などに参加しました。  『苦海浄土』を読むにあたり、原田正純『水俣病』を参考にノートに年表を作りました。水俣病をめぐる歴史は1961年生まれの私の人生と分かち難く結び付い

          第7回 光と風が通る場所で 磯野聡