水俣コラム【10月より休止】

NPO法人水俣フォーラムが運営する「水俣コラム」です。水俣と現代をつなぐコラムを毎月… もっとみる

水俣コラム【10月より休止】

NPO法人水俣フォーラムが運営する「水俣コラム」です。水俣と現代をつなぐコラムを毎月第2・第4金曜日午後4時に更新します。 「水俣・福岡展2023」の開催に伴い、新しい原稿の掲載を10月から当分の間休止させていただきます。

最近の記事

第14回 〈その後〉を生き延びること 小松原織香

 2015年の秋、私は初めての水俣訪問に向けて土本典昭監督『水俣 患者さんとその世界』を視聴した。映画の終盤、チッソの株主総会で、患者の浜元フミヨさんが両手に親の位牌を持って社長に迫った。水俣病で両親を亡くした苦しみを訴えたのだ。 「わかるか、おるが心。おるが心、わかるか」  切なる叫びを聞きながら、私は身動きできなかった。スクリーン上の患者さんに、同情ではなく自己投影をしていた。  私は19歳のときに性暴力の被害に遭った。その後、七転八倒しながら日常生活を取り戻し、大学院に

    • 第13回 50年前に私が見たもの 山田 真

        1971年12月12日ごろだったと思う。  もう50年以上も昔のことになるが、私にとってその後の生き方を決定づけるような出来事があった。私たちが組織していた青年医師連合東大支部に依頼が来たのだ。「チッソ本社に水俣病の患者さんたちが坐り込んでハンストを始めた。患者さんたちの健康管理が必要なので往診してもらえないか」という依頼だった。  当時の私は、69年の東大闘争敗北後、いくつかの医療機関で診察をしながら、森永砒素ミルク中毒被害者の闘いを支援したり、三里塚空港反対闘争に応援

      • 第12回 二度目の衝撃 郡山リエ

         67年前、7歳の私は周りで起きている事の意味を理解できなかったせいか、わずかな記憶しかない。百戸ほどの村で頻々と墓地に向かう葬列。講堂で受けた変わった身体検査。海水浴の禁止。漁に出られない祖父は焼酎浸りで祖母に暴力をふるった。そして母の店では患者さんの入店を拒否したり、お金を手で受け取らず消毒したり。  母の店での対応が患者差別と受け取られていると知ったのは、学生時代に『苦海浄土』を読んだ時だ。衝撃を受けなかったはずはないが、この時の記憶は私の中で深く沈み込んだ。この本だと

        • 第11回 「公」の崩壊 佐高信

           最近出した森功との共著『日本の闇と怪物たち』(平凡社新書)の第四章は竹中平蔵である。  「国際政治学者」と称している三浦瑠麗が、夫が経営する太陽光発電投資会社の問題で集中砲火を浴びたが、もっと問題なのは竹中だろう。大体、メディアが竹中を「大学教授」と書くのが、まず間違いである。規制緩和ならぬ規則緩和の政府の会議の委員をしている時も彼はパソナの会長だった。そして非正規雇用を推進する発言を繰り返して、パソナの拡大に貢献したのである。これ以上の利益誘導はない。  私は2020年に

        第14回 〈その後〉を生き延びること 小松原織香

          第10回 語りえなさを宿す旅 木村友祐

           水俣駅の近くの歩道で、猫が一匹、そろりと建物の隙間に入っていく。水俣病の爆心地とも言われる「百間排水口」のそばでも道路の端で寝そべっている猫がいたし、隣町の漁港でも悠然と歩き去る猫を見かけた。ひと月前(6月)、初めて水俣を訪れたときのことだ。  かつてこの地では、おびただしい数の生きものが死んだ。猫はおそらく一度全滅したはず。とすれば、ぼくが見た猫たちは、海に溜まった汚染物(有機水銀を含んだ海底のヘドロや魚介類など)がおおかた取り除かれた後に持ち込まれた猫の子孫なのかもしれ

          第10回 語りえなさを宿す旅 木村友祐

          第9回 水俣闘争の日々と父 山田梨佐

           父が亡くなって半年が過ぎた。私の父渡辺京二は、1969年から73年にかけて水俣闘争が最も激烈だった時期に支援運動に深く関わった。その頃支援に関わった人たちが家に来られることも多く、熊本大学の学生などの支援者たちが来ると、夜遅くまで父の部屋からにぎやかな声が響いていた。私もそうした人々の話などから、父が闘争に関わっていることを自然に知るようになった。  父が水俣病を告発する会や支援者の人びとと、厚生省の一室を占拠して逮捕されたのが70年。私は小学校の5年生だった。父が逮捕され

          第9回 水俣闘争の日々と父 山田梨佐

          第8回 思考の源泉としての水俣 藤原辰史

           どうしたって戻ってくる。どんな文献を読んでも、どんな講義をしても、どんな論文を書いても、現代史を研究する私の思考はいつも水俣に還ってくる。たった2回しか訪れたことがない水俣に。  昨日は、さつまいもの歴史に関する講義をした。石牟礼道子さんの『食べごしらえ おままごと』を紹介し、いつの間にかチッソ本社前での座り込みの時に彼女に女学生たちが買ってくれた貧相な「おさつ」の話にスリップしていく。先週は、拙著『分解の哲学―腐敗と発酵をめぐる思考』を土台として、自然界の物質循環に関する

          第8回 思考の源泉としての水俣 藤原辰史

          第7回 光と風が通る場所で 磯野聡

           私が水俣フォーラムの会員になったのは2006年の年末、16年ほど前のことです。教員として勤務していた埼玉県の高校で人権教育の係になったことがきっかけです。水俣フォーラムのお力を借りて大阪府在住の患者さん坂本美代子さんと小笹恵さんの講演会を開くことができました。会員になってからは石牟礼道子『苦海浄土』の読書会などに参加しました。  『苦海浄土』を読むにあたり、原田正純『水俣病』を参考にノートに年表を作りました。水俣病をめぐる歴史は1961年生まれの私の人生と分かち難く結び付い

          第7回 光と風が通る場所で 磯野聡

          第6回 埋葬された提言書 柳田邦男

           水俣病公式確認から50年(2006年)を前に、行政の課題を検討する「水俣病問題に係る環境大臣懇談会」が設置され、1年余の議論を経て、提言書起草小委員会が設けられ、委員の私がその文章を書く役割を引き受けた。  提言の一つに、水俣病対策を漏れなくするために、水俣付近だけでなく広範囲な海域の汚染の実態解明と隠れた被害者の発掘を目指して総合的な調査研究に取り組むべきだという項目があった。小委に同席していた事務官が、水俣病の研究は十分あるから、そのような調査は必要ないと横槍を入れた。

          第6回 埋葬された提言書 柳田邦男

          第5回 ふたりの医師に導かれへき地に 香山リカ

           東京で長らく大学教員と精神科医の仕事をしてきた私だが、2022年春より北海道むかわ町穂別というところでへき地医療に取り組んでいる。その決断には、ふたりの医師の影響が大きく関係している。  ひとりは、アフガニスタンで医療や灌漑などの人道支援に取り組み続け、2019年12月に銃撃により落命した中村哲医師だ。「一隅を照らす」を座右の銘にしていた中村医師は、誰もが国際貢献に身を投じなくても、自分のいるところでできることをすればそれでよい、と講演などで説いていた。中村医師逝去の後、医

          第5回 ふたりの医師に導かれへき地に 香山リカ

          第4回 出会ってしまった者のつとめ 田村元彦

           米本浩二の快著『水俣病闘争史』(河出書房新社)に記されているのは、石牟礼道子の表現を用いるならば、「ちいさな無名の人間たちが」「圧倒的な運命にむかって闘い、たおれて行った」記録である。「水俣」とはそういった闘いの経験の総体である。闘いは人を生み、人をつなぐ。「水俣」と出会ってしまった者はそれぞれが生きる場で何らかの〝闘争〟へと誘われ、コミットせざるをえなくなるだろう。  「水俣」について私がずっと不思議だと感じていたことは、他の公害病や社会問題などに比して、関わる人たちの社

          第4回 出会ってしまった者のつとめ 田村元彦

          第3回 生命誌の原点にある水俣 中村桂子

           水俣との出会いを思い出しています。1971年、恩師である江上不二夫先生が「生命科学」の研究所を創設され、この新しい学問を始める仲間に入れていただきました。今では誰にもなじみのある生命科学という言葉は、この時、先生がつくられたものなのです。  それまでの生物学は、動物学、植物学など対象とする生物によって、また遺伝学、発生学など研究する現象によって分かれていました。先生は、DNA研究を通してこれらすべてを「生命とはなにか」を問う学問として統合されたのです。DNAを切り口にすれば

          第3回 生命誌の原点にある水俣 中村桂子

          第2回 死者のコトバ 若松英輔

           先日、作家の大江健三郎が亡くなった。彼の『持続する志』と題する本のなかに「原民喜を記念する」という講演の記録が収められている。そこで大江は原爆投下後の広島を描いた小説『夏の花』にふれ、「まだ開いたまま終わっている、すっかり小説が閉じられてしまわないままで終わっている」と述べ、ここで問われているのは解決がつくというたぐいの出来事ではないことを語気強く語る。  この文章を読みながら、自ずと原田正純の『水俣病は終っていない』を想い出した。この問題に終わりがくることはない、というの

          第2回 死者のコトバ 若松英輔

          第1回 「水俣」を明日の手掛りに 実川悠太

           例えば自身の日常や存在そのものに嫌悪感を抱いてしまったとき、私たちは否応なく立ち止まって考える。それは、あまりにも理不尽な対応に直面したときや、疑ったことのないものに強い疑義が生じたとき、あるいは自身や家族が障害を負ったときも同様だろう。  いつの間にか、生きることはなかなか難しいことになってしまった。この社会は、近代化の極限域に達して、さまざまな価値が崩壊し始める一方、有史以前から個人を守ってきた共同体を私たちは壊し続け、残存するのはもはや欠片となって、個人を包摂できなく

          第1回 「水俣」を明日の手掛りに 実川悠太