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第9回 水俣闘争の日々と父 山田梨佐

 父が亡くなって半年が過ぎた。私の父渡辺京二は、1969年から73年にかけて水俣闘争が最も激烈だった時期に支援運動に深く関わった。その頃支援に関わった人たちが家に来られることも多く、熊本大学の学生などの支援者たちが来ると、夜遅くまで父の部屋からにぎやかな声が響いていた。私もそうした人々の話などから、父が闘争に関わっていることを自然に知るようになった。
 父が水俣病を告発する会や支援者の人びとと、厚生省の一室を占拠して逮捕されたのが70年。私は小学校の5年生だった。父が逮捕されたというのはびっくりしたはずだが、そう心配したという記憶はない。71年12月のチッソ本社ビル座り込みの時は6年生。その年の暮れには父は熊本に帰らず、父の不在を慰めようと、水俣支援の熊本での拠点だった喫茶カリガリの磯さんが花束を抱えて来られた。その当時周囲の人びとを含めて、何か高揚感のようなものが満ちていた。
 父はその頃運動に没入して生活の糧だった学習塾経営がおろそかとなり、経済的には苦しかった。私が中学の頃だったか、畳の上に正座して、蔵書を本棚から選び出している父の姿を覚えている。古本屋に売って生活の足しにするためだった。大切な本を売るのは辛かっただろう。父や支援者の人たちは、文字通り体を張った戦いをしたと思う。学生の中にはとうとう大学を卒業しなかった人もあり、よい就職口を蹴った人もあったと聞く。父はその後運動から退き、多くを語らなかった。
 いつのことだったか、長年の友人で運動の仲間でもあった人の車で、水俣に行ったことがあった。国道3号線を南へと下りながら、「この道を何度も通ったなあ」と懐かしそうに言った。闘争は大変だったに違いないが、仲間と理念を共有し、患者さんのためにと戦ったあの日々は輝いていたのだろう。その時の父の楽し気な表情を昨日のことのように思い出す。

(やまだ・りさ 社会学)


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