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子供たちの葛藤 子供の頃の葛藤

子供たちの葛藤
子供の頃の葛藤
大人になっても、同じような葛藤や場面が重なるなって。
***
とある夕飯の後、
三男が、「こんな家、嫌だ〜!』といって、頭を下向きにし左右に振りながらブンブンさせていた。
彼は必死だった。本当に今ここで起きたことが嫌で嫌で仕方ないのだけれど、自分にはどうする事もも出来ない「嘆き」があり、ただ…それを表現していた。
小さな身体いっぱいに力が入り、どこにもぶつけることができないし、声に出しても届かない絶望の感情を床に向かって ただ叫んでいるようだった。
その姿を目にして「何があったんだろう」と、思う反面、自分の中にも同じ気持ちが幼い頃にあったのを思い出した。

自分の表現した言葉が、自分の思ったようには受け取られないことが起きる。
自分は言葉を知らない。どういう言葉をここで使ったら相手に思うことを伝えられるかのすべがわからない。
そして、兄弟・家族の中では一番歳が下で言語化するスキルも言葉も知らないし、パワーもない。
小さな人なりに必死に今ここを生きていた。
今ここでできることの最大のことをしている。
自分の出せるものを絞り出し、表現できる全てを詰め込んで 話していること。
ただその事実を一緒に確認し、承認してほしかった。
「小さな人」であることに意識を向けて欲しかったこと。
「小さな人」扱いされるのにも「嘆き」がある。
「小さな人」のラベルを外して、人間として存在したいのは年齢に関係ないのだ。
そのバランスや発達は複雑であるし、家族の中でどう意図を持つかは重要。
三男のように「こんな家、嫌だ!」そう思ったことがあったよなって、昔の体験がいくつか重なった。
見えている世界の違いからくる体験や視座のランクの構造がピッタリ重なる。
**
まさに三男の嘆き
「体温管理表」を学校に忘れてきたことに気づいた三男。
「体温管理表は家にはない。」「忘れてきた。その事実。」を一緒に確認してほしくて、「ねぇ、一緒に探してよ」としか彼は表現できなかた。
兄弟は、その言葉の後ろにあるものを理解してはくれなかった。
「探してもないなら、ないんだよ。」
「大丈夫だよ、忘れたって先生にいいな!」
それでもしつこく、一緒に探すことを求めると…
「うるさい、静かにしてよ。」
「自分のものくらい自分で管理しろよ。」
「お前、邪魔するな。」
どんどん、自分が小さく ぎゅっと圧縮されていく感覚。
そして、「お前が悪い。」「自分がいけない。」「ちゃんと管理しろ!」の声に、圧倒されて自分がなくなってしまう怖さがやってくる。
だんだん、うーうーいうしかなくなり、「こんなはずじゃない。」に自分が見舞われて、そのうーうーと嘆きの渦から自分を元に戻せなくなってしう。
そして、「わがまま。」のレッテルがはられ、余計に息苦しさを感じる。

自分は、こんなことを求めてなんていない。
なんで、そうなっちゃうの?
なんで、もっと優しくしてくれないの?
なんで、気持ちを向けてくれないの?
しまいには、自分が悪くなってしまう、条件付きで命令される。
あー嫌だ! こんな家、嫌だ嫌だ〜〜。
三男は、コントロールされる、支持されることに反応を示す。(自由人)

夜、布団に横になった三男に一つずつ、ゆっくり、味わうように、共にいながら 聞いてみた。
三男には、本当はこうなって欲しいって イメージがあるの?
そういう体験、覚えているんだね。その優しいつながりで、一緒に見て欲しかったんだよね。
一人じゃ、「無い」って確実で安心できないから、承認が欲しかったんだよね。
(学校で、どれほど体温管理表が大事にされているのかもそうそう出来る。おそらく、その表がないと学校に行きにくい三男の性格から立ち上がる「気がかり」も推測できる。とにかく鎧が必要なのだ。)
「うまくいかない会話に、もううんざりしている?
自分の気持ちが、兄弟に受け取られることはとっても必要だった?」
「きっと見てくれるって、信じたかった?諦めたくなかった?」
うん、と三男は頷く。
それは、怖いし、嫌だったね。
三男の中に広がっている、求めていた質を大事に一緒に味わいたかった。

想像しかできない。そしてそこまで本人は気づいていないし、考えられていないかもしれないけど、
諦めたら、自分は大事に一生されないんじゃないか。
家族のつながりをあきらめたら、ずっと、この息苦しい場所に永遠にいるようになるんじゃないか。
そんな不安もしていたのかなと、推測した。

どんなに小さくても、本当はこうなれる。とか、
本当はそのイメージでつながれるって ちゃんと知っている
自分一人では心細い、「助けて」の表現だったのに、その逆に進んでしまい息ができない状態。
自分はそんなやりとりを望んでいないし、そうなることを意図して発言していないのに、どうしてもうまくいかない。
うまくいかないどころか、時には矯正され、お前がおかしい、お前が悪いの 「いい/悪い」や「敵味方」の話になり、望んでいたものと違うことがどんどん広がっていく悲しさ。無力感。
彼は、次の日の学校を休みました。
彼にとっては必要な時間だったのかは、三男にしかわからない。

子供たちに話すことのスキルも大事だけれど、
関係性で意図したいことは何なのか、「自分」と「相手、兄弟、友達」とどうなりたいのかに気づいて欲しいなと、甘い感覚で感じました。
さて、私がここで必要と思ってしたことは。
それぞれの状態と状況に共感し、それら全てを大切にすること。
子供たちの必要な表現の全てに信頼を向けること。(3人がそれぞれ必要があり、表現した言葉であることを尊重する。)
起きている現実や世界に、愛が伝染していくことを ただ祈り その質をただ持ち続けるのでした。
少し前の私だったら、ガツガツ介入して こんなふうな大事な仕方を選択できなかったよなって。そのガツガツ介入していた自分にも愛おしさを感じた日。


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