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「ニューロセプション」「問題行動」「子どもとの関わり」を考える。

 ニューロセプションとは、「自分の身の回りのことを無意識に評価し、判断する神経的なプロセス」。つまり、自分の身のまわりで起こっている事、今自分がいる場所、目の前の存在(相手)など、自分の外側にある環境や状況、体験していることを安全であると感じているかどうか、ということ。認知的な判断ではなく、神経系による(瞬間に)無意識にしていること。自分が安全であると感じられない場合、その環境や体験は生きるか死ぬかくらい大きな脅威となる。

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“問題行動"は氷山の一角であり、子どもが生き抜くための「適応的な反応」

「氷山の一角」としてあらわれた問題行動ではなく、水面下の目に見えない真の原因を神経科学の理論から探り、神経多様性に由来する個人差を尊重した解決策を紹介。〈緑の神経経路〉でつながりを回復する、育児・教育のパラダイムシフト。

――問題のある行動や混乱した様子を目にしたとき、私たちが最初に問うべきことは、“どうすればそれを取り除くことができるか“ではなく、"これはその子について何を物語っているのか“ということです。

――問題行動をなくすことに焦点を当てるのではなく、子どもたちに、それぞれの子どもの神経系に合わせた安全の合図を与え、社会交流行動が自然に生まれるようにする必要があります。

(発達障害からニューロダイバーシティへ: ポリヴェーガル理論で解き明かす子どもの心と行動 本文より抜選)

我が家の子ども達、

急に「そうくるか〜」というような行動をすることがよくある。

その時、親の(大人の)視点、「〜であって欲しい」願いから、その行動を変えようとする自分がいる。

まさにコントロール。

子供自身に起きていることは傍に置かれる。この瞬間にどんな必要があって、その選択や行動をしたか 氷山の一角の下にある深い部分に意識を向けることができなくなってしまう。そんなことがよくある。

その瞬間、子供がした選択・行動にびっくりしたし、面食らう感覚。残念さ、焦りや不安に見舞われたのは自分(大人)。

全て自分の感情であり、自分のものであるのに。子供がその選択や行動を起こしたから 私は、こうなっている!(心配だし、気になるし、気がかりだらけ)だからその行動は変えるべきだと瞬間的にジャッジ(判断)し、強要することを長年してきました。

これは私のニューロセプション「私は安全かどうか」の確認からくるもの。

NVCの実践の中で、

踏みとどまること、立ち止まって 深呼吸して 自分の神経系がどのように反応しているのかを感じることをしてきた。

立ち止まってよーく考えると、自分の帰属(含まれること)のニーズや、成長、期待、経験、そして子供がすこかやであるために願う愛からなるジャッジ(判断)だと気づく。

「それもそうだよね。子どもが健やかであって欲しいし、少しでも力になってあげたい気持ち、実を結んでいくことに貢献したい気持ちは、親なら誰にでもあるよ」そう自分自身にいって聞かせることで 自分の神経系が緩むのを感じる。

それができた時、自分と子供が別な人間で、子供にも何かの必要があってその判断や行動をしたのだと意識が向けられる。子供のニューロセプションに意識が向くのだ。子供の置かれている状況で何に「安全か、安全を感じないのか、何かをする必要がある」に駆られているのか。

含まれるために、居場所を確保するために、仲間であることを示すために、その必要からマウントを取ることもあるよね。

手前側の作業として。子供に向き合う前に自分を確認する。

十分に対話する時間とエネルギー、体力が自分にあるのか。

子供との対話に一歩進むことが可能な状態か。

何か「〜すべき」の状態に自分が張り付いてはいないか確認。対話するには、向き合う覚悟と時間が必要。自分が思うような対話が進むことはほとんどない。柔軟に流れを一緒に作るためにスペースが必要。

片方が「悪い」と指摘され、神経系が縮こまり、窮屈な状態では防衛的な中でしか対話ができない。

自分は子供が安心して正直に声を出す環境が作れているか、子供は大人のエネルギーを瞬時に受け取り、生き抜く知恵から嘘をつくこともある。表面上だけ合わせることもできるし、いい子ちゃんにもなれる。問題の根っこに触れるだけのスペースがお互いの中に作れるかも大きなポイント。

表面上の関わりだと、その問題行動は繰り返される。

表面上の関わり。

もしくは、それはスピードも早く瞬間的な変化が見れるかもしれない。

特に親(大人)の意識が社会的な立場や体裁を気にしている場合は、そちらを躊躇なく選択するケースが多いだろう。

そして、望む結果が得られない場合、相手に問題があると攻撃するかもしれない。

それが最大の方法だと思ってきた。

その手段しかない。

自分がそうされてきた。

それ以外が見当たらない。

諦める。

適当に、自然にないことになる。

ここで考えたいのは、

表面上はうまくいった(自分達はやっている)かもしれないが、心の奥 氷山の一角ではなく、下の部分。深層は健やかな状態になっていたのかを 丁寧にみたい。

そして、ニューロセプションは 世界は 社会はギュッとさせながら頑張り続ける場所。仕方ない、そうやって大人になる、そうやって生きていくんだと求めているだろうか。

私は、子ども達との関わりの中で、社会が諦めや妥協ではない世界であることを伝えたい。世界は自分たちで創れること。生きることや大人になること、楽しくて 神経系がリラックスした体の状態で集中してパフォーマンスが発揮できる場所であること、そのことが自分の生き甲斐につながっていくものとお誘いしたい。

手段は無限にある。

ギュッと我慢ではなく、お互いの必要から何ができるか工夫できる部分を探すこと。

表面上は何も変わらないかもしれないが、心の奥に確実に変化が生まれること。人間が持つ思いやりや慈悲をベースにつながりを育む世界は想像するだけでも憧れるし、甘い感覚になり 豊かで美しい。

叱りつける自分の価値観の押し付けに自覚的でありたい。

子供をコントロールではなく、自分の意識で選択する情報を差し出すこと。子供と一緒に 立ち止まってみるお誘いをすること。それができるのは大人の特権がなせる 貢献そのもの。

その関わってもらった経験が、子供自身のリソース(資源)になっていく。細胞がその感覚を記憶する。

大人の特権(パワー)をどう使いたいかは、その人の選択。

パワーとインクルージョンの意識を暮らしの中で考え採用していきたい。

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