【死】


生を受けることは平等ではないが、死は生を受けた者にいつか必ずどこかのタイミングで平等に訪れる。
生きる上で、避けることの出来ない最後の絶対的なイベントが、”死”という概念である。

自分としては、そういう認識をしている。



今日、小さな家族が虹の橋を渡った。
一歳半の、短い歳月だった。

しかし、小さい家族は俺が本当にとても辛い時、今からちょうど一年ほど前の頃、ずっと元気に走り続けて一生懸命ご飯を食べたりトイレに行ったり沢山寝たり、おやつを食べて満腹そうにしたり、とても麗しくて可愛らしい姿を俺に見せ続けてくれ、ずっと心の支えをしてくれていた。かけがえのない存在だった。
「この子のために、まだ自分は死んではならない」と、生きる理由をくれた。
「自分のように可愛い生き物がお前の家にはいるんだぞ、お前が死んだら誰が自分の世話をしてくれるっていうんだ」と毎日、俺を鼓舞させてくれるかのようだった。

言葉は通じないけれど、できるだけこの子の気持ちを沢山考えた。何をして遊ぶのが好きかな?どんなご飯をあげたら喜んでくれるかな?俺の家にやってきて、幸せな思いをさせてあげられているかな?


噛みグセがすごくて、噛む力もすごく強くて、正直噛まれるとめちゃくちゃ痛かったけど、それも愛おしかった。力強く生きているのだと感じさせてくれた。

家に来た日はお目目がきゅるんきゅるんだったり、大好きなおやつをあげるとまた目を輝かせたり、時に全てを目で殺すかの如く鋭い眼差しをしていてイケメンのようだったり。
色んな顔を見せてくれて、ずっと見ていられた。
一生懸命生きようとする姿に、元気や勇気を沢山もらった。


でも、あんなに元気に走り回っていたのに、呼吸することすら苦痛そうにしている姿を見るのは、本当にとても苦しかった。

徐々に、徐々に、弱っていくのを見て、「ああ、きっとこの子とはもう長く一緒にはいられないのだな」と予期した。

健康寿命ではなく、元いた場所で動物同士が接触することによって感染する寄生虫が原因であった。
もう少し前までは若さゆえの抗体があったが、一歳半を迎え、抵抗力が弱まってしまい、あっという間に元気をなくし、病状が進行してから、亡くなったのは結構すぐにだった。


誕生日は3月の1日で、うちに来てくれたときはもう5ヶ月が経っていたので、一緒にいられた時間はわずか1年と1か月だった。

どうか2歳の誕生日を一緒に迎えることができますように、と願っていた矢先の出来事だったので、さらにその気持ちも上乗せになって、つらかった。

でも、本当に楽しかったよ。
一緒にいられて、この子と家族になることができて、俺は本当に幸せだった。

あれだけ鬱で死にたくて仕方がなかったのに、この子の姿を見たら、絶対に今死ぬわけにはいかない!と、強くそう思わせてくれた。


そして今も、そう思わせてくれている。

ついさっき亡くなったばかりで、今日午後の頃火葬場に連絡をするつもりだが、今この子の魂はこの家をさ迷っていると想定して、もうすぐその魂はきっと虹の橋の向こうへ、空の上に行く。

今度は俺が家の外にいても、空の上からこの子が俺のことを見守ってくれるようになるんだと思ったら、恥ずべき行動は尚のことできないと思わせられる。


この子みたいに一生懸命、今を生きなくてはならない。
病状が進行して本当につらそうだったのに、頑張ってお注射にも耐えて、最後まで必死で病気と戦い抜いて、生き抜いた子を目の当たりにしたんだ。


ありがとう。

出会ってくれて。
家族になってくれて。
沢山癒しをくれて。
いつも可愛かった、イケメンな君。
大好きだよ。
これからもずっと大好きだよ。
愛してるよ。
どこまでいっても、いつまでも、ずっと忘れないからね。
ずっと俺たちは、家族だよ。




読んでくれてありがとう。
涙が止まらなくなりながら、およそ40分かけてこの記事を書きました。
いつも記事を書く際には30分~1時間を要するし、書き綴るたびに魂の切り売りのような作業だなと感じるけれど、今回は特にそれを感じながら、一生懸命書きました。

俺の魂を切り離した欠片を、読んでくださってありがとう。
そんな優しいあなたには、きっと幸せがたくさん降り注ぐようにこの世はできているのだと、俺は信じています。




また会おうね。

おやすみ。または、おはよう?かな?

そして、またね。





千川 悠里(10)

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