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連載小説『J-BRIDGE 』9.

 それから三日が経過するまでの間で、明石の身周りで特筆するようなことは起こらなかった。何時とも問わず目を覚ましては、近所のコンビニへ出かけておにぎりを二個。加えて免罪符のように野菜ジュースを二本買い込むと、一日かけてそれを消費する。
 口にするものが無くなると、身体を労るようにして布団の上に丸まって陽が落ちるのをただただ待つ。落ちた陽は明石の周りをぐるりと回ってまた昇る。それを三度繰り返す間に、息を吹き返した明石のスマートフォンはアルバイト先からの着信で何度も震えていた。
「明石君──。いい加減にしてくれるかな、遊びじゃ無いんや。連絡が取れへんねやったら君を雇ってはいられへん」
 六度目の着信の伝言メモには、明石がアルバイトとして務めている先の店長によってそう吹き込まれていた。
 仏の顔も三度まで。そう考えると比較的温厚かもしれないその店長は、些細なことにでもすぐに腹を立てる人だったことを思い出す。それが回数ではかるもので無いと、明石はひとつ知恵をつけた。
 明石の体に生々しく残っていた痣や細かい切り傷が、日が経つにつれて色味を薄めていく。明石は傷跡が地肌と同化するタイミングを自覚したいと、常々思っていた。
 刻み込まれたときには頭中の意識が集まって仕方無かったはずなのに、治る頃には欠片の興味すら失っている。自分がいちばん知っているはずの体が、知らないうちに姿を変える。そのことを不思議に思い、知らないままでいることを、少しばかり情けなくも考えていた。

 自転車のスタンドを立てる音が、夕暮れの街外れに甲高く広がる。
 熊沢が指定した三日後の十八時。その日、明石は再び「J-BRIDGE」の扉が待つ階段の前に立っていた。左官屋の鏝で塗り広げられたような、薄い橙色が広がる空を背に受け、地下へと続く階段を見つめる。
「別に、バイトをクビになったから……。そう、仕方なく。仕方なく」
 自分に言い聞かせるような明石のつぶやきには、頭上の電線に止まる二羽のカラスが応える。
 その声に振り返った明石。彼と目が合ったカラスたちは、再度カアカアと鳴いて飛び去っていく。沈み行く陽に向かって羽ばたいてく姿を見送った明石は、一呼吸置いてから一歩目を踏み出した。
「あの人たちだったら、信じてみても……」
 一、二、三と歩いて足を止める。後ろに重心が残った不格好な前屈みは、明石の心情そのものだった。
「無理やったら終わるだけ、ただそれだけ」
 過度な期待は禁物だと、自分にそう言い聞かせる明石。多くの人間が目の前から去って行った二年前に、自分の生活に多くを望むことを辞めたはずだった。期待するから苦しむ、苦しまない為には期待しない。そうやって生命を維持して、好きなタイミングでやめればいいと思っていた。
 降りながら数えた段数は全部で十二段。それらを踏破した明石の前には、内側に押し込む形の片開き扉が一枚。
 右手で把っ手を掴む。明石が想定していたよりも軽かった扉は、けたたましい音を奏でて彼を迎え入れた。

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