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隣人

「ピンポーン」
 そのドアベルの鳴り方は、玄関の前に人がいることを示す鳴り方であった。私が住んでいるこのマンションはオートロック式で、このベルが鳴ることなんてほとんどない。
 そのことが私の警戒心を高め、手に持ったスプーンを床に落とすくらいには動揺した。
「えっ? 誰?」
 左手のプリンを机に置き、落ちたスプーンはそのままに玄関へと向かう。入居以来初めて覗いた扉の穴から見えたのは、鍋を抱えた一人の女性の姿だった。
 年は見たところ自分より少し上くらい、社会人3年目といったところだろうか。友人でも無ければ知り合いでもなく、まして彼女なんてここ数年の間いないままだ。
「はい、なんですか?」
 部屋を間違えているのかもしれないと扉を開けた私に対して、女性は屈託のない笑みでこう話し始めた。
「あの、隣の者なんですけど、晩御飯作りすぎちゃって......。良かったら食べてくれませんか?」
 この時代にそんなことがあるというのか。何か騙されるんじゃなかろうかと疑いの心を持ったところで、目の前にあるのは確かに鍋。中にはなんと肉じゃがが入っているという。
 上京してきて早二年。食のバランスなどとうに狂っている私にとって、垂涎物の肉じゃが。甘辛い香りが鼻腔を刺激したときから、断る選択肢は既になかった。
「うわっ! めっちゃ嬉しいです。ありがとうございます!」
 尻尾を振る犬のようにはしゃぐ私を見て、彼女も楽しそうに笑った。

 その日以来、彼女が私の家のドアベルを鳴らすようになり、その度に鍋だったりタッパーだったりを腕に抱えていた。そんな日々が続いて数か月ほどが経ったある日の夜、私に邪な気持ちが芽生えてしまった。
「彼女、どんな部屋に住んでいるんだろう」
 私の部屋は角部屋なので、隣人は一人しかいないことになる。良きか悪きか、バルコニーの柵に少し身を乗り出せば隣の部屋は容易に除くことができ、芽生えた思考を実行する邪魔になるものは一つも無かった。
「ちょっと覗くだけ、それだけだから......」
 誰かに赦しを乞うようにつぶやきながらカーテンを引き、バルコニーへと出る。風は吹いていなかった。
「よいしょっと」
 右手で柵をしっかり掴み、半身になって体を前に突き出す。首を回すと、彼女の部屋の中がばっちり見えた。
「えっ、なんで?」
 見えていいはずが無かった。部屋には普段ならカーテンがかかっているはずで、少なくともレースのヒラヒラした様子は見て取れるべきだった。
 そこで人が生活しているのなら。
 我が目を疑い、こすった目を凝らしてみても、そこには何も無い部屋があるだけで、生活の匂いなど微塵も感じない。隣人などいなかったのだ。
「ピンポーン」
 いつものようにドアベルが鳴る。体を引き戻し部屋に戻った私は、恐る恐る扉の穴を覗いた。
「こんばんは隣の者です。今日も作りすぎてしまって......」

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