「表現すること」への抵抗感を越えていく 【後編】
コミュニケーションとは
文化である
こちらの記事は、わたしのアメリカ留学中の体験も交えて、「コミュニケーションは文化であることに気づいた」という前回の記事の後編です。
前回も書いたように、アメリカでは多くの人が臆することなく、自分の思いや意見を表現します。
それは、United States of Americaという国の成り立ちや(アメリカは、強い自治権を持った州が集まる "連邦制国家" という体制を取っています)
言葉にしなければ伝わらないほど、慣習、宗教、言語などのバックグラウンドから、性的指向や性自認、社会階層が多様性に富んでいる、
という背景があることはよく言われています。
なにより、Freedom of Speech(言論の自由)は、民主主義社会の根幹をなす権利として憲法で守られ、学校教育でも徹底して教えられています。
そして何度も繰り返しますが、「それがすごいよね!」という話ではなくて……↓
「共通認識」という土台を明確に設定することで、わたしたちは自分たちが望むコミュニケーションの文化を作っていける
ということが言えるのでは?というお話でしたね。
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身の回りにある「共通の土台」を考えてみる
これはあくまでわたしの主観ですが、アメリカでは表現する側も、それを聞く側も、
「それがどんなものであれ、一人ひとりが持っている考え、思い、感情には価値があり、表現される権利がある」という共通認識というのが土台にあって、
その上でコミュニケーションが起こっているように感じました。
ではここで翻って、わたしたち個人の日々の関わり、交流では、どうでしょうか?
たとえば、あなたの職場、家庭、パートナーとの関係、所属するコミュニティーの中には、どんな共通土台がありそうですか?
突然ですが、ちょっとシンキングタイムです。
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Thinking Time
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はい!どうでしたか?
「そう言われてみれば、こんなものがあるなぁ〜」と思う人もいれば、
「考えてみてもピンとこない……」「そんなことは考えたこともない!分からん!」という人もいるかもしれませんね。
おそらくは、後者の「ピンとこない」「分からない」が多いのでは?と思っています。
わたし自身、関係性というのは自然に出来上がっていくものであって、
わざわざそこに「こんな関係性を作りましょう」といった、意図や形を与えるということは考えたこともありませんでした。
そんなわたしが「わたしはこの人と、どんな関係性を作っていきたいんだろう?」と深く考えるようになったのは、夫とのコミュニケーションがきっかけでした。
結婚当初は、食器の洗い方から洗濯物の干し方、相手の悩みを聞くときの声かけの仕方まで、思いも表現もズレにズレていて。涙
それぞれが自分にとっての「常識」と「よかれ」で動いていて、すれ違いがとっても多かったです。
よく険悪なムードになっていたし、「またこのパターン!?」とうんざりすることもあったし、泣いたりもしてました。
それでも話し合いを重ね、お互いを理解することに努め、その間も、ただ闇雲に交流するのではなくて、
わたしたちは、どんな関係性を作りたいんだろう?
どんなわたしたちでありたいんだろう?
その関係性を形にしていくために、自分は相手に何を求めていて、相手のために自分は何ができるだろう?
そういった点を、微に入り細に入り、必要が出てくるたびにすり合わせて明確にしていきました。
それはす〜〜〜ごく(強調)めんどうだし、時間はかかるし、「またかぁ〜(オーマイガー!)」って繰り返すことばかりで(笑)、
気持ちが萎えることも何度もありました。
でも、そうやって2人の間のコミュニケーション文化をしぶとく作っていくこと、2年以上。
現在、わたしと夫の間では、
● お互いをどんな存在として見るのか
● 2人の間で何を大切にするのか
● 何をルール違反とするのか
● この関係性のために、お互いどのように努力するか
といったことを明確に共通土台として設定できた状態で、スムーズなコミュニケーションが取れています。
ときにはうまく思いが通じ合わないこともあるけれど、そこに費やしたエネルギーや時間と、形になってきたわたしたちオリジナルのコミュニケーション文化は、今でもわたしたちの関係の基盤となってくれています。
(大切な友人のカフェで、春分のお祝い♪)
※実際の事例があるとイメージしやすいと思うので、わたしと夫のコミュニケーション文化については、また別の機会にお伝えできたらと思っています。
別の角度からわたしたちの関係性について書いた記事もあるので、参考までに載せておきますね。
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コミュニケーション文化の創造は、大変!
ここからは、「具現化のプロセス」について書いていきたいと思います。
「こんな関係性にしたいね」という理想像の共有ができれば、共通の価値観やルールも逆算するように見えてくるもの。
たとえば、「お互いに敬意を持つ関係性」を目指すなら、言葉を大切に扱う、相手や自分をけなすような言葉・嫌味な表現は反則、といった具合です。
ただし、それを実行するとなると、一気にハードルが上がりますよね。
文化創造のプロセスの渦中、特に初期段階においては、楽しいことよりも痛い思いをすることの方が圧倒的に多い。
【6】のコミュニティーの説明にも書いたように、
関係構築というのは、最初は不調和から始まり、互いに関わっていく中で学び合い、成長することを通して創造される、調和の形だから。
つまり、理想の共有、その理想へ向かうための歩み寄りや妥協、話し合い、衝突まで含めて、その関係に関わるすべての人の努力と貢献、コミットメントが必要になってくるんですね。
※自然発生的に生まれた関係は、そのよさももちろんあります。ただ、途中で意識的なコミットメントがない限り、自然消滅しやすくもなります。
コミュニケーション文化の創造というのは、文字通り「創造」ですから、自然発生的に生まれるものではなく、そこに意識的に命が吹き込まれなくてはいけない。
みんなが「関わる」ことでしか、作れない。
そして、理想は理想ではないところからスタートしますよね。
はじめはたくさんのすれ違いを経験して、嫌な思いもして、嫌な相手を存在させて、嫌な自分も見て。
でもそこから、自分の中でも、関わり合う相手とも、すり合わせのためのコミュニケーションを重ねていく。
そこに縛られる苦しさを感じながらも、関わろうとする。
それは本当に大変で、逃げ出したくなるときだって当然あるだろうし、逃げ出すことだって、あっていい。
でも、わたしたちの魂は、いつだって出会いに行こうとしています。本当の相手と、本当の自分自身と。
魂は、心は、自分という小さな意識の器から出て、より広く、大きく、柔らかく、力強くなっていこうとする意志の塊。
だから、わたしたちは世界と対峙し、葛藤し、ぶつかり続けていて、苦しむのは求めているからなんだと、教えられるのかなと、思うわたしがいます。
少しずつでいい。
まずは、自分の思いや感覚を感じてみる。
それに慣れてきたら、外に表現してみる。
自分の言葉を受け止めてくれる環境に、他者に、頼ってみる。
自分自身も、他者にとってそんな環境になれるかなって、意識してみる。
そんな文化を、共通の思いを起点に、共に創造していく。
亀の歩みでも、どんなに無様で情けなくても、一段、一段、階段を積み重ねて。
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一人では叶えることのできない
「楽園の創造」
人や自分自身との「関わり」が、どれだけ煩わしく、面倒で、痛くて、苦しいと感じられても、誰もが自分自身と、そして誰かと、一緒に作っていけるといいなって思います。
まとまらなくても、ヘンテコでも、未熟でも、「とりあえず出してよ、そこから一緒に作っていこうよ」って言い合える関係性を。
わたしもあなたも、違うよね。
不調和で、ギシギシ。
はじめはワケが分からないよね。
でも、だから、一緒にいる意味がある。
一緒にやる意味がある。
凸凹で、ひとつ。
足りなくて、違うからこそ、分かち合い、共に創る世界へ。
一人では
叶えることのできない
「楽園」の創造
これは【6】のもっとも成熟した世界観を表すときに、わたしが使う表現。
これはそのまま、潜在数秘術がわたしに教えてくれた世界観でもあります。
明日10月10日(日)に本格スタートした「チーム数秘ラボ」というコミュニティーは、そんな場になれるといいな、と思っています(これは私の勝手な希望ですが)。
凸凹な個性を持った、14名のラボメンバーたち。
全員で関わり合って、自分自身にも関わって、不調和から調和を作っていく、実験の旅。
こちらのブログでも、活動レポートをお届けできたらと思っています。
ぜひ、見守っていてください。
というわけで、すっかりボリューミーになってしまいましたが、前回の記事に引き続き、今回は「コミュニケーションは創造可能な文化」というテーマでお送りしました!
それでは、最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!
みっこ
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