私は子育てを『協育』と感じた
子育て・育児は人それぞれ考え方や価値観が異なる。共通しているのは子供への「愛情」は不変的である事かな、と思う。
「子供の為に懸命に力を注ぐ」
立派な大人や高学歴を目指し、一生懸命子供の為を思って努力し続ける。それが「子供の幸せ」と考えるから。
子供の為に熱心になれる事が素晴らしいな、と思う。
「自分と子供の人生はそれぞれ」
最近は「自分」と「子供」は個々に存在していて考え方も違って来るよね、という見方も増えてきた。
だから、子供との時間も大切にしながら「自分時間」も大切にする。要は依存しすぎない関係性を保つ事かな、と考える。
自分の場合はどちらか?
昔は前者だったが、徐々に後者にシフトして来たかな、と思う。
現在娘は小学3年生だけど、保育園年長さんから小学1年生前半までは「中学受験」とか「高校は進学校へ」とか熱心に考えていた。
だけど、小学校入学後に不登校になり、更に発達障害も判明し。その辺から「レールに縛る拘り」は段々崩れて行った様に感じる。
今はこの考えが完全には無くなってはいないのだけど、実現したい私の思いと娘の考え方が拮抗し、私自身が疲れてしまった。
それに「子供のために」と注いだ結果、成人したら生き甲斐が消えてしまう、というのも確かに嫌だな、とも思い。
だから最近は後者の、「自分も大切に」「自分中心に」という考えが段々強くなって来た。
「親も子も共に成長していく」
とは近年よく言われて来ている。「親⇄子」互いに学び合う。共に育って行く意味で「共育」と言われたりもするかな、と。
私は子育てを『協育』と感じた
「共育」と「協育」。一見同じような感じだが、なぜわざわざ「協育」という言葉を使ったのか?
それは娘の、私への接し方で感じたからである。
私は「自分は自分」と思っていた。でも、娘は何だか違うような感じがした。
「ママを助けたい」
いつも娘はそう言ってくれる。体が弱い私。母親としてしてあげられている事って、周りからしたら少ないかも知れないな、と考えていて。
体調が悪くて娘と接してあげられない事も多い。だから娘は寂しい思いや辛さを他の子より多く感じているはずなのだ。
だけど、そんな私の事を、
✔️ママ大好き
✔️大きくなったらママを幸せにしてあげたい
✔️ずっと一緒だよ
✔️大きくなったらママをお世話するんだ
と、いつも優しい言葉を掛けてくれる。そして私の体調が悪い時は、そっとしてくれたり、氷を袋に入れて持って来てくれたりと。
考えれば考える程、至れり尽くせりなのだ。もはや…娘に育てられている気さえもする(笑)。
もちろん、共に学び成長して行く。でもそこには「協力して幸せになろうね」という娘の気持ちを感じるのだ。
「協力して助け合い育んでいく」
だから『協育』だな、と感じた。
「教育」ってやっぱり奥深いな、と思う。人それぞれやり方は異なるのは然りで、その家庭に合った教育をするのが良きかな、とは思う。
共に学び、共に成長。
協力して育んでいこう。
「幸せのかたち」を探していく
未来を明るくするために。
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