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発見して落ち込み、そして新たな世界を見つける過程

今回の三男の療育は運動プログラムだった。

私は姿勢や動作、バランスの専門家なのに、情けないけど子どもの行動は分析できなかった。

なぜかというと、純粋に運動だけでは結論が出ないから。

違う視点が必要で、それを私は持てていないのがわかっているから、真剣に向き合ってた。

その真剣さとすぐジブンゴトにしがちな思考回路により、頭の中がこんがらがって、今日は自分のメンタルが一気に落ちるのがわかったよ。

その整理のための記事。


見通しが立てられない

三男は発達に遅れがあったり、凸凹なタイプの子どもに対する療育に週1回通ってる。

今回のプログラムは運動で、比較的親が目で見てわかりやすい内容だった。

三男は見通しが持てないことで不安が強く、普段は「行きたくない、やりたくない」となりやすい。

気持ちの切り替えの苦手さもあって、幼稚園の登園拒否は日常茶飯事。

割と拒否傾向だったり、一度見てから参加するような慎重さがあったから、物事には慎重なタイプだと思ってた。


ところが!

運動サーキットの参加では、意外とヒョイヒョイと進んでいく。

難しいんじゃないか、と不安な気持ちが聞かれていたにも関わらず、その勢いは止まらない。

身体を動かすことは自信のあることだからこうなのか、自信はないけど焦りが動きに出たのか、意外でビックリして、三男に釘づけになった。


そして、療育最後の懇談で、先生に投げかけてみたところ

「このクラスの子どもたちは、目の前の課題や自分の感覚からこう動いたらこうなるだろう、みたいな見通しが立ちづらいタイプなんですね。

 だから慎重な子はより慎重に、無鉄砲なタイプの子はより無鉄砲で危険な感じになりやすいんです。

 慎重なタイプの子には、止まって悩んでるときに具体的にどう身体を動かしたら上手くいきそうかを教えてあげると、学んで次に進みやすくなります。

 無鉄砲なタイプの子には、サーキットでやった平均台にブロックを置くみたいな感じで、ちょっと立ち止まって考えるような状況をつくってあげると、考えて動くことができるようになってきます。」

と教えてもらった。

三男は運動機能的には軽々と動き、見た目は猿のような身軽さだけど、体幹もお尻の筋肉も上手く使えないタイプで、疲れやすく、低緊張がベースにある。

運動サーキットにチャレンジするのにそういうアウトプットの部分はあまり関係なくて、どちらかというとインプットや脳での認知の部分の影響が大きかった。

人の動きを見るって、本当にたくさんの視点があるんだね。

目の前の情報から、脳でプランニングをする過程が未熟。

だけど、こうして療育でわかりやすくて適度なレベルの課題を丁寧に成功体験を積める機会があるって、未来ある子どもに対して、めちゃくちゃ大事だよね。

今は未熟でも発達のキッカケを与えてもらえることで、その部分が伸びていったりするのだと思うし。


ジブンゴトにした結果

療育で学んでいると実感することがある。

それはね、自分が乗り越えてきていない課題って、子どもたちに上手くサポートしてあげられないってこと。

自分に経験があって、乗り越えてきたとしたら子どもたちに必要な見守り方ができる。

ただ、その場合でもその子に合ったやり方ではなかったりすると、それはそれで上手くいかないのだけど。


例えば、次男のときは感情のコントロールの部分でつまずいた。

次男が感情のコントロールが苦手なのは、未熟なのと特性があったからなのだけど、夫は上手く対応するのに、私は次男と同じレベルで不安定になった。

2歳の次男が自暴自棄になって私を叩くと、私は悲しくなって涙が出てきてしまう、みたいな。

当時は4歳の長男の療育も自分の仕事もあって余裕がなかったことも大きかったとは思う。

だけどね、そんな自分の状況や性質を自覚できていればそれなりに対応が考えられたと思うのに、私は子どもに叩かれるという事態にただただ悲しくて仕方がなく、その感情にのまれてしまってた。

結局、次男の感情のコントロールの苦手さへの対応を療育で学んでいく中で、自分の感情のコントロールと向き合った。

自分の目の前しか見えないこと、感じたことで頭がいっぱいになりやすいことを自覚し、視野を広く持つとか、状況を俯瞰する力を高めるように意識していく中で、少しずつ感情をコントロールできるようになってきたと思う。

まだまだ感情が高まることがあるけれど、自分に問いかけるとか、言葉にするとかして、感情のまま動かない対策が取れるようになったから、だいぶ成長したよね。

そうして、そのやり方がわかるから、次男に対しても感情的にならずに距離を置いたり、必要な言葉を選んでかけたりができるようになり、関係の悪化は防いでこられたと思う。


そして今度は「見通し」の課題。

思えばそうだ、私はいつも見通しが甘くて、何でもやればできるんじゃないかってつい思ってしまうし、できなくても「次はこうすればきっと上手くいく」と思って、自ら失敗の道に進んでいくことが多い。

それは本当に自分に必要なものなのか、自分にとって努力する意味があるほど大切な課題なのか、取捨選択の立ち止まりがいつもない。

目の前のことができなかったら、できるまでやる、ただそれだけの単純脳で生きてきたんだと自覚。

落ち込んだよね。

夫に言ったら笑われそうだけどさー。

それに別にそうやって生きてきたことがダメなわけじゃないし、正解の道があるわけでもないしね。

でも落ち込んだの。

一歩立ち止まるって、今でも難しいなーって思って。


尊敬すべき子どもたち

帰ってきて中1の長男に、三男の話をした。

ついでに私が落ち込んだ話もした。
 
長男「ママはね、意外と心配症なんだけど、何に対してもではなくて、気になったこととか何か思うことがあることに対してすごく心配症だよね。
 
確かに見通しが持てないことに対しては、俺とは違ってすぐ動くし、失敗もあるかもしれないけど、これは慎重にやりたいと思ったときに、考えて動くように気をつければいいんじゃないかな。

何に対しても常に考えて動くのがいいわけじゃないし、すぐ動けるのがママのいいところでもあって、すぐ動けたから良かったことだっていっぱいあるんだよ。
 
ここは慎重になろうっていう重要な判断をするときは、気をつけてよく考える、それができたらいいんだよ。」


私「そっか。そうだね。自分が大事だと思う場面で、ちゃんと考えられたらいいんだよね。」


 
脳みそ違うなーって、長男と話してるといつも感じる。
 
私が全然考えてこなかったことをすごく考えていて、私が気になっちゃうことってあんまり気にならないみたい。
 
だから話すことが楽しい。


 
そうか。

長男と夫はすごく感覚的に近いから、普段全く話さないんだけど、なんとなく通じてる感じがあるし、わかるからコミュニケーションってあんまり必要としないのかもしれない。
 
そして、私はいろんなことがわからない人だから、コミュニケーションを取るのが楽しくて、コミュニケーションが好きなんだな。
 

ついでに次男のことも。

今、次男は私にとても敏感で、私が何を言っても逆ギレな思春期なのね。

そんな次男からは「言わなくてもわかってほしいのに、何でわかんないんだよ、ふざけんな」って心の声が聞こえてくるのよね。
 
だからわかってあげたくて声をかけるんだけど、逆効果で。
 
そこで言われなきゃわからない、を通すことで距離は自然になる。


なんかね、そういう、今まで私が学んでこられなかったことを、子どもたちはたくさん教えてくれていてね。
 
どれも多分、若いときの私には難しくて避けてきたことなんだと思うのよ。
 
再び私に学ぶキッカケをくれているんだなぁと思うと、ありがたいこと。


 
でも難しいね。
 
難しいからこそ、子どもたちにも

「アレしろ、コレしろ」
 
って言わずにも済んでる。
 
私がいろいろ経験を積んできて、私のいうことを聞いていたら間違いないのよっていう人間だったら、きっと子どもたちとは関係が築けてないと思う。
 
私にも課題があって、私は私で向き合ってるっていうその姿勢だけで実は子どもたちには十分で。

時々考えたり感じたことを独り言のように子どもたちにも話したりしてるんだけど、それが子どもたちの心強さにもつながってるのかもしれないって思う。
 
直接的な関わりが苦手な子どもたちだから、その距離感と、私は私の問題に取り組むっていう姿勢が大事。


思えば長男にアレコレ自分のうんちくを押し付けてたときは、長男は自分のことは棚上げで次男のできていないところを指摘するようになり、次男はそれを受けて三男の指摘ばかりするようになってたなぁ。

子どもたちにはその都度、誰かのことはいいから自分のことをちゃんとやるようにしようねって話してきたけど、子どもの心配ばかりして自分のことを棚上げしてたのは誰よりもこの私だった。

家庭での子どもの教育とは何か。
 
自分が成長していく姿や過程を見せること。
 
親が自立すること。 

 
そんなことを感じた今日この頃。

まとまってなくて申し訳ない。
 



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