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古典文学に学ぶ無常論-不変を求めても不変なものはない① ~徒然草~

新型コロナによって、私たちの生活が一変したことで、世界中の人たちが、それまで暮らしていた日常が突然に変わってしまうことがあるということを直視したと思います。
それは、大切な人を失うことであったり、仕事を失うことであったり、地理的分断であったりと悲しいことがある一方で、デジタル化の加速のようなことも同時に起きました。


私は大学で日本文学科を専攻し、ゼミの先生が現代文学が専門だったので、小林秀雄の批評文を入口に「無常観」や「死生観」というのをひとつのテーマにした授業がありました。
(実は、この先生は病気で余命宣告をされていて、自分の死について向き合いながら、この授業を行っていたのだと先生がご逝去された後で知ることになりました)

この数年の変化を顧みる中で、先生が授業の中で取り上げた「無常論」について改めて考えてみたいと思い、何十年ぶりに小林秀雄の「無常といふ事」や「徒然草」を読み返し、さらに、その元になっている『徒然草』『方丈記』『平家物語』などを探っていこうと思います。

小林秀雄の批評文は、彼の古典文学への解釈を書いた批評と論評であるので、最後に触れるとして、まず今回は『徒然草』について取り上げようと思います。

『徒然草』(吉田兼好)

学校の古典の教科書などでおなじみの『徒然草』(1930年頃とする説が有力のようですが1349年頃という説もあるようです)。まずはその書き出しからまずは見ていこうと思います。

徒然なる儘に、ひぐらし、硯に向ひて、心に映り行くよしなしごとをそこはかと無く書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ

徒然草(吉田兼好)

(現代語訳)
手持ちぶさたなのにまかせて、一日中硯に向かって、心に〔浮かんだり消えたりして〕うつっていくつまらないことを、とりとめもなく書きつけると、妙に正気を失った気分になる。

KEIRINKAN ONLINE

この「徒然なる儘に」は現代語訳がいろいろあるので、小林秀雄の解釈だと上記とは違う現代語訳になりますが、この段階では、上記の訳を使いたいと思います。

『徒然草』は吉田兼好によると、手持無沙汰だったから書いてみたよ、みたいななんだか言い訳から始まるような出だしです。

ちょっと中身を読み進んで、いくつかそのエッセンスをピックアップ出来たらと思います。


死生観

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに物の哀れもなからん。
世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。
かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。

徒然草(吉田兼好)

(現代語訳)
露や煙ははかなく消える命なのに、この世に死者はなくならないので、あだし野霊園の草露や鳥部山火葬場の煙はいつまでも消えることはない。
だが、その草露や煙のように人間がこの世に永住して死ぬことがないならば、人生の深い感動は生まれてくるはずもない。
やはり、人の命ははかないほうが断然良い。命あるもので、人間ほど長生きなものはない。
かげろうのように朝生まれて夕べには死に、夏の蟬のように春秋の季節美を知らない短命な生物もいる。
それに比べたら、人間の場合は心安らかに一年間を送れるというだけでもなんとものどかな話ではないか。もしも命に執着するとたとえ千年の長い年月を過ごしても、それはたった一夜の夢のようにはかなく感じるだろう

四季の美より

これは死があるからこそ、今生きている生が輝くのであるという死生観について述べているところですね。


また、この後のくだりで、吉田兼好は老いて生に固執していくことより、40歳くらいでスパッと命を終えられたらなんて書いています。
早世したミュージシャンが音楽史において、美化されるような考え方ですね。


実際、こんなことを書いた吉田兼好は70歳くらいまで生きたようで、この『徒然草』(1949年説を取れば)は兼好が60代後半の時に世に送り出した作品のようなので、周りが亡くなっていく中で、長生きしている老いた自分を皮肉的に綴ったものと取れますね。

ちなみに、それを説明するようなくだりがこちらです。

静かに思へば、よろづ過ぎにしかたの恋しさのみぞ、せむかたなき。
人静まりて後、永き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、殘し置かじと思ふ反古など破りすつる中に、亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる見出でたるこそ、ただその折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折り、いつの年なりけむと思ふは、あはれなるぞかし。手なれし具足なども、心もなくてかはらず久しき、いと悲し。

徒然草(吉田兼好)

(現代語訳)
心静かに思い出にふけると、何事につけて、過ぎた昔の恋しさだけがどうしようもなくつのってくる。
人の寝静まった後、秋の夜長の暇つぶしに、雑多な身の回りの品々を整理して、残しておく必要のない書き損じの紙などを破り捨てる中に、今は亡き人の文字や絵を見つけると一瞬にして心はその人が生きていた当時に戻ってしまう。
今生きている人の手紙でさえ月日がたって、これを貰ったのはいつどんな時だっただろうと思いをめぐらすうちに、しみじみとした気分に引き込まれる。
故人の使い慣れた道具類が人情とは無関係にずっと当時のまま残っているのを見るのはとてもせつないものだ。

四季の美より

身近な人が亡くなった後、残された者たちは、その人の思い出に浸ったりすることってありますよね。

歳を重ねれば重ねるほど、親族もそうですが、会社の関係者などに身近な人のお葬式に出る回数が増えてきている今日この頃。

この吉田兼好が抱いた気持ちは今に生きる私たちと同じだなと何百年経っても人間が抱く「気持ち」って変わらないものだなぁと、ここに「不変」はないと書いたのですが、それを見出しました。

大事だと思ったことは何がなんでもやっておけ

この次のくだりは、「大事だと思ったことは、何がなんでもやっておけ!」ということを言っているんですが、さすがに凡人の私には、親や子供、友達まで捨ててということは到達できないですが、とにかく後悔のないよう、やりたいことをやるべきだ、という話です。

大事を思ひ立たむ人は、さり難き心にかからむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。
「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらむ、行末難なくしたためまうけて」、「年ごろもあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、えさらぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。
おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とやいふ。
身を助けむとすれば、恥をも顧みず、財(たから)をも捨てて遁れ去るぞかし。
命は人を待つものかは。無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、逃れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。

徒然草(吉田兼好)

道を求め悟りを開くという一大事を決意している人間は、放っておけず、心にかかる事があっても、その解決を望まずに、そっくりそのまま捨ててしまうべきだ。
「もうしばらく。これが終わってから」とか、「同じことなら、あれを片付けてから」「これこれのことは、人に笑われるかもしれない。将来非難されないように、ちゃんと整理しておいて」「長年こうしてきたのだから、片付くのを持ったとしても時間はかからないだろう。そうせっかちになる事もない」などと考えていたら、放ったらかしに出来ないような用事ばかり積み重なってくる。
しかも用事が消えてなくなるはずもなく、ついには一大事を決行する日も失われてしまうのだ。
だいたい世間の人々を観察すると、少々しっかりした程度の人物は皆、こうした計画倒れで人生を終えてしまうそうだ。
近所に火事があって逃げるとき、火に向かって「ちょっと待って」と言うだろうか。言うはずがない。
助かりたければ、恥も外聞も構わず、財産さえ捨てて逃げるものだ。
いったい寿命というものは人間の都合を待ってくれるだろうか。そんなことはない。死の迫り来るさまは洪水や猛火が襲いかかるよりも早く、逃れがたい。人生がこんな緊迫した状況に置かれているにもかかわらず、老いた親、幼い子、主君の恩、人の情けを、捨てにくいといって、捨てないだろうか。捨てないでいられるはずはない。
求道者は、いっさいを捨てて、速やかに一大事を決行しなければならない。

四季の美より

この話を読んでいて、ふっとキリスト教の聖人フランチェスコの話を思い出しました。
現在のローマ教皇はこのフランチェスコから名前を取っていますが、非常にストイックで知られている聖人の一人だと思います。

この聖人フランチェスコですが、Wikipediaにもちゃんと書いてありますが、勝手に父親の不在中に家のものをすべて売り払ってしまい、勘当されて求道者の道を進んだと語り継がれているので、まさに『徒然草』の中で書かれているような「求道者は、いっさいを捨てて、速やかに一大事を決行した」を人でありますね。

アッシジ郊外のサン・ダミアノの聖堂で祈っていたとき、磔のキリスト像から「フランチェスコよ、行って私の教会を建て直しなさい」という声を聞く。これ以降、彼はサン・ダミアノ教会から始めて、方々の教会を修復していった[27]。
父の不在中、フランチェスコは商品を持ち出して近隣の町で売り払い、その代金をサン・ダミアノの下級司祭に差し出した。帰宅してそれを知った父親は怒り、家業の商売に背を向けて自分の道を進もうとする息子との間に確執を生むことになる。最後には、アッシジ司教の前で父子は対決するのだが、フランチェスコは服を脱いで裸となり、「全てをお返しします」として衣服を父に差し出し、フランチェスコにとっての父は「天の父」だけだとして親子の縁を切った。[28]

Wikipediaより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%B3


そしてタイミングが重要

何かやりたいことがあるならば、タイミングが重要であると。
そのチャンスを見逃さないことが重要だと。
しかし、誰も明日何が起こるかなんて分からないから、もたもたしている時間なんてないんだ、と書いています。

これは、変化の激しい今の時代のビジネスにもつながる話じゃないでしょうか。

準備を周到にしすぎて、他社に先を超されてしまったみたいなことは最も避けないといけないっていう時代なので、プライベートでも自分がやりたいと思っているビジネスであっても、この『徒然草』のくだりは、身につまされる言葉がたくさんありますね。

世に従はむ人は、まづ機嫌を知るべし。
ついで悪しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず、さやうの折節を心得べきなり。
ただし、病をうけ、子うみ、死ぬる事のみ、機嫌をはからず。ついであしとて止む事なし。
生・住・異・滅の移り変はるまことの大事は、猛(たけ)き河のみなぎり流るるが如し。
しばしも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。
されば、真俗につけて、かならず果し遂げむとおもはむことは、機嫌をいふべからず。
とかくの用意なく、足を踏みとどむまじきなり。

徒然草(吉田兼好)

世の中の動きにうまく合わせようとするなら、何といっても時機を見逃さないことだ。
事の順序が悪いと他人も耳を貸さないし、気持ちがかみ合わないので、やることがうまくいかない。
何事にもふさわしい時機というものがあることを、心得ておく必要がある。
ただし、発病や出産や死亡だけは時機を予測できず、事の順序が悪いからといって中止となるものでもない。
この世は、万物が生じ、存続し、変化し、やがて滅びる、という四つの現象が絶えず移り変わるが、この真の大事はまるであふれんばかりの激流のようだ。
一瞬もやむことはなく、この大事は実現・直進してゆく。
だから、仏道でも俗世でも必ずやり遂げたい事がある場合は、時機をとやかく言う暇はない。
あれこれと準備時間を取ったり、途中で休んだりすることは禁物である。

四季の美より

古典文学って、なんの役に立つんだろうって思っていたけれど、読んでみると、コロナ禍によって、生き方を再考させれている今、身につまされるようなことが書かれていたりしてとても面白いですね。

本当は、他の作品も併せてひとつにまとめようと思ったのですが、『徒然草』だけでもかなり学ぶべきことがあったので、それぞれの作品をシリーズで書いていきたいなと思います。

次は、『方丈記』から無常について学んでいこうと思います。

私はかなり掻い摘んで書いてきましたが、「四季の美」さんではもっと丁寧に書かれていますので、ご興味のある方は、ぜひ読んでみると面白いと思います。



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