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新たなかたちを求めつづける~伊藤潤『茶聖』

伊東潤『茶聖』(幻冬舎)を読む。

誰もが知っている茶道界のヒーロー、千利休さんの物語。

利休さんは織田信長、豊臣秀吉という2人の天下人に「茶頭」として信頼された。

お茶の世界に革命を起こし、最後は秀吉から切腹を命じられるというドラマティックな生涯を送ったために、450年経った今でも、ファンがたくさんいる。

利休さんが登場する作品も、小説、映画、マンガなどなど、数え切れないほどたくさんある。謎が多い人物なので、穏やかな好々爺からストイックな美の伝道師まで、作り手によってイメージもさまざまだ。

『茶聖』で描かれる利休さんは、革命家として闘志を燃やしている。

茶の湯を通して、戦乱の世の中に「静謐」(平和)をもたらすというはっきりした意志を持って、秀吉を利用しようとしている。

それぞれの目的のためにお互いを利用し合う秀吉と利休さんの関係は、その始まりから破綻が約束されている。

終わりの場所へ向かって全力で突っ込んでいく利休さんの姿は、とても切ない。「鬼気迫る」という感じだ。

本作の中で、利休さんは表現を変えながら、繰り返し「生々流転」という考え方を口にする。

すべてのものは、絶えず生まれては変化し続けていく。

だから、茶の湯はひとつの場所にとどまらず、常に新たなものを生み出して、変化し続けなければならない。泳ぐのをやめると死んでしまう、マグロみたいだ。

そのために利休さんは、驚くほど狭くて薄暗い、たった二畳の茶室で、豪華な茶碗ではなく素朴な手びねりの茶碗でお茶を飲む、「わび茶」というまったく新しい茶の湯の形を編み出して秀吉を驚かせた。

でも、新しい「かたち」は、現実として目の前にあらわれた瞬間に、もう古いものになってしまう。

常に次の場所を目指して全力で走り続けるという厳しい道のりを、利休さんは自分自身にも、後に続く人びとにも求めていた。

利休さんのように、自分の命まで懸けてひとつの道を求めることは、誰にでもできることではない。

けれど日常を離れ、1杯のお茶を前にふと立ち止まるひとときを持つとき、私たちはいつでも誰でも、利休さんがひらいた道のほとりに休ませてもらうことができる。

戦乱の世に生まれ、あまりにもストイックな晩年を過ごさなければならなかった利休さん。

できることなら今ごろは彼岸で、家族や弟子たちとのんびり茶のみ話に花を咲かせていてほしい…なんて思うのは、いまだ「静謐」の対局にある世界で生きている私の、甘すぎる妄想だろうか。

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