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幼少期の思い出-1- | NYからハワイ、そして日本へ

弟が産まれるまでニューヨークとハワイに住んでいた。
その頃の記憶は断片的なので散文的になる。当時を思い出すと、自分で言うのもなんだが普通の人間みたいだったなあと思う。

父親は新進気鋭のカメラマンだった。母はメイクの仕事をしていたらしい。
ニューヨークに事務所を立てて、車でいろいろな場所に行って写真を撮っていた。
父が荒野みたいな道で急に車を止めて、三脚を立ててハッセルブラッド1000F(※)を構える。暗幕みたいなのをかけて、そこに入ろうとして、ふとこちらを見て「おいでおいで」と呼ぶ。
暗幕の中は映画館の中みたいだ。プラスチックみたいな質感の板に映る景色は、目で見るよりも曇ったような、コントラストと彩度が少し落ちて、でもシャープで、ざらざらしていて、現実味をなくしたような感じに見えた。
父と代わると、父はカシャっ、カシャっと何回か大きな音をさせてシャッターを切り、すぐに撤収する。
また、車は走り出す。

※ハッセルブラッド1000F

時には断崖のような場所で車が止まった。
切り立った巨大な崖が連なっている。自分が立っている場所に草が生えている、こんな巨大な岩の上に草が生えているのかと不思議に思った。
崖は山のようにいくつもあって、遠くの崖の側面には山羊の群れがいた。壁に張り付くように歩いている。
影のようにしか見えないが、崖から崖に飛び移る際に1匹転落していくのが見えた。それともあれは岩か何かだったのだろうか。
風の音はずっとしていたが何かが落ちているのは見えても音は届かない。それはなんだか現実味のない景色だった。

父と母は何やら話している。少しここに長居するらしい。
転落を見てから崖の端に行くのが怖くなった。両親がもっと先端に行ってみなよと笑いながら押してくるのを本気で拒否した。
1人で車に戻って、音楽を流した。当時私のお気に入りだったEternal Flameが流れた。最初のイントロとサビの壮大なところが好きだ。車の中に音楽が充満していく。
音楽は現実世界と壁を作ってくれるみたいで、すぐそこに崖があることを忘れさせてくれた。
カサカサな空気と車の匂いに、贅沢すぎるような音が空気の質感を変えていく。後部座席で横になりながら、薄水色の空を眺める。
レンズ越しに見る世界はいつもなんだか曇っていてかっこいい。

夜3人で街を歩いていると宝石屋があった。
私はそこに入りたいと言って、占い師が使う大きな水晶玉みたいなのを指さして「これが欲しい」と言った。
母は「これは高いのよ。1万円もするんだから」と笑った。これが1万円なら安いじゃん、子供だから1万円て言っておけば黙ると思ってるのねと私は思った。

その夜何故か母はゲームセンターに行きたいと言った。予算は1万円よと。
私は全然ゲームセンターなんか行きたくなかった。ゲームに1万出すなら水晶買ってくれよと思った。母とはあまり趣味が合わないが子供には拒否権がないので大人しく付いていく。
1万円が大量のメダルに変えられ、3人に配分される。
「1万円でゲームなんて、大人の遊びね」母は楽しそうに笑った。
メダルゲームというのだろうか、メダルを使って遊ぶ機械がたくさんあった。いくつかやってみて、グランドクロスというのだろうか、数字の書かれた穴に店員がボールを放ってどの数字にボールが入るのかをメダルを賭けて予想するというゲームが少し気に入った。
母は「たくさんお金をかけないとこういうのは面白くない」と言って、すぐすっからかんになっていた。
全財産を使い果たすと母は満足そうだった。私は眠かった。
父もいたはずだが何をしていたのか。壁の方でタバコを吸っているのはチラリと見かけたが、殆ど存在感がなかった。

夜はよく酒場にいたのを覚えている。
両親は2人で楽しそうに話していて、私は何故かホモグループといつも一緒にいた。当時ホモグループと私が呼んでいたのでそう書いている。当時は男性同性愛者をそのように呼んでいたのだ。
両親が日本語で話すので英語はあまり喋れなかったが、聞き取ることはなんとなく出来た。
「僕たちは子供が出来ないから、いいなあ、子供。かわいいなあ」
「もっと僕たちといてよ。ね、素敵。僕たち子供がいたらこんな感じなのかなあ」
3組ぐらいのカップルは私のことを疑似子供として楽しそうに扱った。
そして大体、同性愛者は辛いという話を深く眉間に皺を寄せて話していた。
眠くなると両親のテーブルに戻って「眠い」と伝えた。

ある日、長い時間飛行機と船に乗ってどこかへ移動した。
飛行機の窓からは、雲の上に雷が光っていたり、海の上の小さな島で火山が噴火しているのを見た。
長いフライトだったのだろうか、周りの客が私にたくさん話しかけてくれた。
「名前はなんというのですか?」
「はるのみぃです」と母が答え「ハ、ハルノォ…ノォ…」と外国人が頑張って発音しようとする。私の名前は外国人に発音できない名前だった。
「Call me はーちゃん」と私が言うと、外国人はほっとして「ハーチャン!」と言い笑った。
「ハーチャン!」「ハーチャン!」と、伝言ゲームのように私の名前が伝わっていく。
「ハーチャン、何かあったらおじさんたちに言えよ。退屈したら遊んでやるからな」そんなことをウィンクされながら言われた。
私は英語が喋れないし聞けると言ってもなんとなくだ。
YESかNOしか基本答えられない。NOとは言えないので「YES!」と答えた。話しかけるつもりはないが、そうとしか答えられない。

船では少し段差になった四角い空間があってそこに何人もの客が座ったり寝たりしていた。
そこでも「ハーチャン」は伝言ゲームのように伝わり、誰かが通りかかるたびに「ハイ、ハーチャン」と笑いかけてきた。
私は船酔いでイライラしていた。
子供だからって何でいちいち話しかけられないといけないんだよと思った。
2日目の昼、クジラが出たという放送が流れ外に出た。クジラの尻尾を見ると幸せになるんだとか母が言った。
甲板に出ると人でごった返していた。私は人混みが嫌いなので「帰りたい」と思った。
父は自分の区画でゴロゴロしていることを選んでいた。私も父と残れば良かった。
ひと区画で歓声が上がり、母が興奮した顔で私を引っ張って行った。
結局クジラが見れたのかどうかは覚えていない。身長が低いので海すら見えないしね。

当時は分かってなかったが私たち親子はハワイ島に着いた。
私は3歳くらいだろうか。親から離れても大丈夫な年齢と判断されたのか、もう父の仕事に連れて行かれることはあまりなかったと思う。
私はいつも誰かの家に預けられて、両親の帰りを一緒に待っていましょうねと預けられた人から言われていた。

ハワイ島では、怯えていた記憶が多い。
「私は大丈夫?お母さんに怒られない?」そんな風にいつも預かり先の人に聞いていた。「大丈夫よ、ハーチャンはとってもいい子だったわよ」預かり先の人はみんなそう答える。
両親が帰ってくると、母はみんなから見えないように私の腕を捻り上げ「調子に乗ってんじゃねーよ」「良い加減にしろよ」「私に恥をかかせるな」などと言った。訳がわからない。何で怒られてるのか分からない。
「お前のせいで、私にどれだけ迷惑かけてると思ってんだよ!」
ホテルで母と2人になるといつも酷く怒られた。
「ごめんなさい…ママ…」
「ママなんて呼ぶんじゃねーよ、お母さんだろうが!」
髪の毛を掴まれて「お母さんと言え」と言われ「お母さん」と言ってみた。お母さんという単語が何を指すのかその時はよく分からなかった。

そしてまた次の家に預けられる。
私は絶対に迷惑をかけないように、極力喋らないで動かないでいようとした。預かり先の人は「本当に良い子だったわよ」と両親に話す。一瞬だけ胸を撫で下ろす。今度こそ。
それでも何故か母は私を怒って叩いた。
きっと預かり先の人は、私の前では良い子だって言って嘘をついてるんだ。大人は信用できない。良い子ってなんだろう。私はどうすればいいんだろう。

ハワイ島では私は食べれるものがあまりなかった。お店の匂いも苦手でスーパーでは鼻呼吸が出来なかった。
果物とインスタントラーメン、それ以外は苦手だった。日本食料理屋にもよく行っていたからか、日本は食事が美味しくていいなとよく考えていた。
その辺でもしかしたら母のイライラを買っていたのかもしれない。
今になってみると、母は妊娠していたからイライラしていたのかもしれない。どちらにせよ、あまり一緒にいないので理由はよく分からなかった。

ハワイ島で日本人に預けられていた時期があった。
家にはプールがあって、女性2人で豪華な家に暮らしていた。
女性は「オイルを塗って肌を焼くのよ、一緒にやる?」と私に聞いた。
「肌を焼くなんてとんでもない。黒い肌なんてカッコ悪い!意味が分からないわ」と私はもしかして口に出しちゃってたかもしれない。
プールサイドチェアに彼女が横たわっている横で、私はプールで泳ぎまくった。陽の光が水に当たってとても綺麗だし、冷たくて気持ちいい。海と違って砂も入らないししょっぱくないし最高だと思った。
しばらくして、真っ黒に日焼けした私を見て女性はゲラゲラ笑った。私より日焼けしたわね!と。
おかしい。冷たいところにずっといたのに焼けるなんておかしい。どういうことよ!と私は恥ずかしさと怒りで震えていた。
またある日、彼女は私に「ココナッツ飲む?」と聞いた。
海沿いに売っていたココナッツを飲んで「めちゃくちゃ不味い」と思っていた私は何度も断った。絶対イヤだと断った。
彼女は面白がって「美味しいから!」と私に無理やり飲ませた。
「!!!!!!!」
ものすごい味がして、考える間も無く吐いた。それを見て女性が「あっ、ごめん!これジュースじゃなくてココナッツオイル…油だったわ」と笑った。
笑い事じゃない。お前も飲んでみろ!と彼女を睨んだ。私は金輪際ココナッツと名の付くものは口にしない。絶対に。と強く誓った。

他にも記憶に残っているのは割と辛い経験が多かった。
それでも大人になってからハワイの香りを感じるものがあると少し落ち着く気持ちになるのは不思議だ。

母と海辺で貝殻を集めるのが好きだった。
シーグラスと呼ばれる綺麗なガラスを拾った時は大切にしまっていた。
母は私にクーピーと画用紙を買ってくれた。クーピーはクレヨンを細長くしたような画材だ。
全然思ったように描けなくて、クーピーが悪いんだわ!と思って怒っていた。こんなものでまともな絵なんか描けるわけないと。
母は私の乱暴に描いた絵の横にクーピーでさらさらとプルメリアを描いた。美しい絵だった。
クーピーが悪いんじゃない、私が下手なんだ…。
私が描いた絵は筆圧が強くて単色という感じだったが、母の絵は淡くてグラデーションが効いていて綺麗だった。
真似しようとしても真似出来なかった。

たまに母は私に勉強を教えた。
当時1番好きだった本は、村上春樹翻訳の「空飛び猫」という本だった。
村上春樹の日本語の音の作り方が綺麗で、猫に羽が生えてるなんて夢のようだと思って何度も母に読んでくれとお願いしてるうちに1人でも読めるようになった。
日本語はある程度読めたが漢字を書くのが苦手だった。後ろで母が監視している中、間違った文字を書いた瞬間「違うっ!」と大きい声がするのが怖かった。
その時は「昼」という漢字を書いていて、ノートは「昼」という字で何ページも埋め尽くされた。
母が新しいページを開いて「それだけ書いたらもう書けるでしょう。はい、書いて」と言う。お手本はない。
私は頭が真っ白になって書くことができず、固まってしまった。
「なんで書けないのよ!」と母が怒る。私は「ごめんなさい」と言って、また何ページも「昼」を書いた。でも、書けるようにならなかった。
また、当時平仮名をかくと鏡文字になってしまうことが不思議だった。関係ないが大人になった今もカタカナを書くのが苦手で何も考えないで書くと違う文字を書いてしまう。
大人になって思うが、3歳の子に何故漢字を書かせようと思ったのだろう。不思議だ。

気づいた時には、私は日本にいた。
日本では定住するらしい。念願の日本だ。変な匂いもしないしご飯も美味しい。これでもっと幸せになるのかもしれないと胸が高鳴った。
私はもう2度と海外には行かない、日本で一生暮らすのだ。

そこは下北沢の平屋建てのアパートで、大きな庭があった。大家さんは「小さな子が遊べるように綺麗にしないとね」と笑っていつも綺麗に手入れしてくれた。
家から急な坂道を下ると商店街があって、お肉屋さん、パン屋さん、薬局があった。
お肉屋さんはいつもメンチコロッケをくれた。パン屋さんはアンパンマンパンを作る天才で、そのパンを食べると幸せな気持ちになった。薬局の人はカエルの指人形をいつもくれた。
坂道の途中には大きな柘榴の木があって、実がなるとおばあちゃんが柘榴の実を袋に詰めて持たせてくれた。美味しくなかったけど、信じられないくらい綺麗な果物だと思って私は何枚も柘榴の絵を描いた。
この辺りには子供が少なくて、近所には小学4年生と6年生の子供がいるだけだった。2人とも歳の離れた私を可愛がってくれた。
周りの人も「はーちゃん」「はーちゃん」と言って笑って声をかけてくれた。
近所には、黒い大きな犬がいて通りかかると嬉しそうに吠えた。飼い主のおばちゃんは「この子は、はーちゃんのことが大好きなんだね、いっぱい遊びに来てね」と言った。嬉しかった。

家はいつもガランとしていた。誰もいないことも多かったような気がする。
大きくなってから聞いたが、当時両親ともに家に子供を置いて仕事をしていたらしい。まあ、日本は治安がいいですからね。
母は昼食と夕飯の時には家にいて、私は廊下で寝そべりながら焼きそばの匂いだ、嬉しいなあとか思っていた。父はあまり顔を見せなかったが、夜はビールを飲んでゴロゴロしていた。

父はたまに私に話しかけてきたけど、子供の扱いが下手なようだった。
パチンコ屋に連れて行ってくれたことがある。うるさくて臭くて最悪だった。ビールも飲んでみろと言った。苦くて不味かった。
私を膝に乗せて、車のハンドルを切ってみろと運転中に渡されたこともある。夜の細い道で、ライトの光がぐんと右に向いて、照らされた女性2人が「きゃあああ!」と悲鳴を上げた。人を轢きそうになった。
はーちゃんは何もできないなあと父は笑った。

当時の私のお気に入りの音楽は、スチャダラパーのサマージャム'95だった。窓から風が流れ込んでくる廊下に転がりながら聞いてると良い気分だった。
テレビを付けると「アルプスの少女 ハイジ」というアニメがやっていて、オープニングを見た時にびっくりした。人間が本当に動いているよりも、実際の花や木よりも、綺麗な動きだと思った。
人間はこんなに綺麗に動けない。どうやって作ったんだろう。
私はそれから何本ものジブリ映画を食い入るように何度も見た。

家では私は自分の部屋を与えられていて両親とは別に寝ていた。
リビングには母の趣味でホラー映画やアニメ(エヴァンゲリオンの使徒とか、チャイルドプレイ(※)とか)のフィギュアがたくさん置いてあった。
時計じかけのオレンジとかシャイニングとか、怖くて暴力的な映画を母は好んでおり、夜によく流れていた。
夢の中では映画で見た人が私を襲ってきたり、家中のフィギュアが動き出して襲ってくる夢をよく見た。毎日眠るのが怖かった。

映画「チャイルド・プレイ」

夜私が眠らないので、母は近所の人に頼んで一芝居打った。
私は当時ムーミンのモランというキャラクターを1番恐れていた。
母はニヤニヤしながら「寝ないとモランが来るよ」と言った。モランは怖かったがあれはアニメのキャラクターだ。来るわけがないと私は無視した。
コンコン、と庭側の窓を叩く音が聞こえた。見ると、黒い大きな塊がもそもそしている。コンコンと再度ドアが叩かれる。
「ほら、モランが迎えにきたよ」
私は息を呑んで動けなかった。怖かった。
そして、1人部屋に連れて行かれ、ドアを閉められた。
きっとあれは近所の人だ。でも…。体が冷たかった。冷たくてとても眠れなかった。

楽しいムーミン一家「モラン」

夜中静かになっても眠れなくて、私は両親の部屋に行った。体がとても冷たくて誰かに触れたかった。
扉を開くと両親は裸で抱き合って眠っていた。布団もかけずに、絡まり合っていた。
小さい私にはそれはグロテスクで、怖いものに見えた。

それでもまあ平和に過ごしていたある日、母の母という人が来て「お母さんは入院してるから、おばあちゃんが面倒を見るからね」と言った。
私は両親がいないのには慣れていたのであまり気にしなかった。入院とはなんだろう。
やがて、母が「赤ちゃん」を連れて戻ってきた。
私は泣いている赤ちゃんを見て「ああ、家族が壊れるな」と思った。この家でそんな傍若無人に振る舞ったらダメなのに、と。
一目見てこの赤ん坊が嫌いになった。

この赤ちゃんが下北沢にいた記憶はあまりない。
多分母は妊娠したから日本に戻ってきて、実家の近くで子供を産んだんだろうから、下北沢にいたのは1年もなかったのかもしれない。

私の予想通り、赤ちゃんがやって来てすぐに両親は離婚し、母の実家の近くに引っ越すことになった。
私たちの引越しの前に、父親が家から出て行った。
荷物も特になく父は玄関から出て行った。普通の光景なのに、母の厳しい、何か重い雰囲気に「ああ、何かが変わるのだ。多分悪い方に」と感じた。
それ以降父親が家に現れることはなかった。

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