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茶化す覚悟があるなら、茶化してもいい。

18歳前後の弱冠の私や、周りの人間が、
学校を卒業し、片田舎から上京するに当たって、

冗談交じりに受け取り、そしてまた誰かに投げかけた一つの言葉がある。


「地元捨てたんだな。」

私は今、この言葉を、26になった今頃、
言ったことをふと思い返しては、自責の念に駆られている。

当時、同級生と再会したときの
ジュースが酒にかわったばかりのうぶな座卓で、
この言葉はよく交わされていた。

まだ経験が浅く、何も刺激を受けることなく過ごしてきた私を含めた同級の田舎の民にとっては、
あからさまではないにしろ、根底にみな都会に対して共通認識的な「憧れ」に似たものを感じることがあって。

そんな青さと一緒に、都会派vs田舎派が揃う場面で出てくるお約束が、「地元捨てたやろムーブ」。

今となっては、その空気感すら可愛いものだ。

年齢を重ね、経験を積み、23のときに、成り行きに任せていたら地元に帰ってきていた私にとって、 この言葉の意味はだいぶ変わった。

 (正直現在26歳で、もう帰ってきてから3年弱経ってることに書いている今、驚いている。)

とくに、地元に戻ってきてから、
地域振興系の人々と接点を持つようになり、そういった活動を自分(所属するクリエイティブ・ギルドまにまに等)でもかじるようになってから、

「そんな冗談、冗談じゃない。」と、

少し過去の自分の地元捨てたムーブに多少のイラつきを感じた。


茶化せるのは、件に対して未熟であるという証。

いつだってそう。

深く事情を知らないものは、簡単にわらえてしまう。ちょっと話が大きくなるが、マジョリティがマイノリティの実情を知らないのもそう。
誰もが世界の全てを識ることはできないのだから、当然と言えば当然の摂理。
きっとこれからも、人はその小さな過ちを繰り返していくのだろう。問題は、誰もが犯すその過ちを素直に識って、正そうとするかにあると思う。

そして、件において、正せることが一つ、私に芽生えたわけだ。

自分が地元を「好き」であるのは、どんなに離れていても、例え縁が薄くなったとしても、
自分のルーツとして変わらない。

それが結局「好き」というもののなかの一種で、たとえ嫌になったとしても、その存在は、心の中の土台に必ず在る、ということを、出戻りだからこそ身に沁みて感じたのだ。

その想いに一度気づいてしまったからには、
もう簡単に、「地元を捨てた」なんて同郷の友を茶化すようなことも言えない。私がもし言われたら、今の私、 

「捨ててねえし!!捨てようと思っても捨てられねえもんだし!!」

とまあ、妙なツンデレが如く、地元に対するネジ曲がった愛を語ってしまいそう。それはそれで恥ずかしい。
だから、「うわ〜捨ててやんの〜」と言っていた頃の自分にヒイヒイしてしまう。この無知を正してこそ成長。。。良い成長痛である。

茶化す覚悟があるなら、茶化してもいい。

とても仰々しい表現になったが、
ラフに言うなれば、「あとで自分が痛い目見るから、何事も軽々しく冗談に任せて、卑下するようなことは言うなよ〜。それ黒歴史になるぞ〜。」ってね。

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この話を書いてて脳内再生されてた。
武田鉄矢氏の歌詞、大好きなんだな。
ありがとう、良い曲です。(太田胃散)

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