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エッセイ・コラム

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感じた事をいろいろ書いていきますので、読んでみてください。
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記事一覧

霞に消えゆく月のごとく

霞に消えゆく月のごとく

『光る君へ』が始まったので、少し書いてみたい。

今回の大河に興味が注がれるのは、従来の「史実をどのように脚色するか」とはやや趣きが異なるからではなかろうか。少なくともわたしにとってはそれだ。

そもそも古代をテーマにドラマ化するのであれば、あくまでも「お芝居」であるはずである。
不明である諱を「まひろ」としている事からもよくわかる。
漢詩人、歌人であった藤原為時の娘であり、藤式部もしくは紫式部と

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季の詞

季の詞

なぜか言葉に対してふつふつと想いが湧いてきた。

言葉は元来、人と人との間での意思疎通、物事の伝達手段として存在している。
ただどの地域で生まれた言葉も、変化を伴い、またひとつの言葉にいくつもの意味合いを内包させ発達していった。消える言葉があり、あたらしく生まれる言葉もある。
言葉の中にはニュアンスとして、文化的情緒が付随されているケースも多い。

そんな中、世界を見渡すにはハードルが高いが、日本

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別方向へ向かった神話

別方向へ向かった神話

「閉じた神話」わたしは何度かこの言葉を使ってきた。果たして「誰」が神話を閉じたというのだろうか。

先日神話部部長の矢口さんからひとつのリンクをいただいた。妖怪に関しての、識者へのインタビュー記事だった。
「この内容、翠さんが書いた「閉じなかった神話」と、論調が近くないですか?」と、矢口さんに言っていただいた。正直びっくりした。何となく思っていた事を書いただけだが、確かに識者が示す論に近いのだ。

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秘めたるは

秘めたるは

先週、小難しいコラムを前後編にして投稿した。
誰に向けてと言う訳でも無く、およそ単なる忘備録の類だ。誰かの役に立つわけでも無い。

ずっと以前、ひとつのエッセイのコメント欄で、神話部部長の矢口さんから「翠さんの歴史文学に対する史観がわかったように感じた」と、そのような言葉をいただいた。
自分でもよく掴めているかどうかわからないが、わたしがコラムに出すものの多くは、確かに創作・文芸と向き合う際の肝に

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天宇受売命という存在 前編

天宇受売命という存在 前編

日本神話の中でわたしが最も好きなキャラクターは天宇受売命(アメノウズメ)だ。
彼女の説話から、古い古い時代の素朴な神話の精神を垣間見る事ができるからだ。
さてその上で、後世①かかる説話から彼女の存在を薄めてしまったように感じられる事。②彼女の事を具体的には見出せずとも、強く彼女の存在を感じる事。このふたつの事象について、前後編にわけて書いてみたい。
それによって、わたしの胸中に湧く神話の世界観を、

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天宇受売命という存在 後編

天宇受売命という存在 後編

前編はコチラ

後編 ② 戯れては笑ひゑらぐ

天と地が分かれ、山河が整い男女が現れ結ばれて子孫を残す。やがて闘争や支配、統治に進む。
これを軸に様々な理に対する説明や、正当性の提示という枝葉を付ける。
時代の経過に伴い、世相思想を反映させ、後の人々の手による解釈や脚色も加わりながら、神話は整ってきたのだろう。(少なくとも日本の神話は)

物語が進むにつれて、人の感情の投影が増え、神々が徐々に人に

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閉じなかった神話

閉じなかった神話

異論はあろうかと思う。これは単なるわたし個人が感じている事であり、尚且つ上手く伝えられる気もしないのではあるが……

八百万の神々を人の暮らしの傍らに送り、それ自体はスメラミコトに繋がり閉じていった神代。そしてその後時を経て生まれた伝承や民話の数々。
職業集団の一種である『語り部』が奏上した神代ではなく、生身の人々の口と心が語り継いだ物語は、ある意味『閉じなかった神話』と言えるかも知れない。

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コラム 水の道

コラム 水の道

先月、書くと言っては放置してきた『神話に見る貴重な循環』についてやっと記事にした。糞尿の肥料化の話だ。

さて、では『一般的』な考え方として、いつからそれが行われていたかについてChatGPTに問うてみた。文献で確認できる最初は鎌倉時代である以上、それより前でなければならない。

答え
『古くから』

😂😂😂

ずるい答えだ。ただそこには江戸時代にはシステム化が整っていたとも書かれていた。

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エッセイ 花

エッセイ 花

桜前線とは心踊る言葉ですね。
毎年毎年の事ながら、短くも咲き誇る花を愛でる。季語において、心の目で見る桜を「花」と言い表す奥深さには、さもありなんと頷くばかりです。

「花と言えば桜」とは、平安時代から。それ以前は「花と言えば梅」であり、それは唐風文化の影響から来ている、と言われます。
ただこれは文芸にも投影する風情の話であるようにも思えるのです。
どうも桜には、眺めて楽しむ以上に敬う理由があった

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単に気持ちいいからだけかも知れないけど…

単に気持ちいいからだけかも知れないけど…

木曜日、久しぶりにロミロミを受けてきた。

神話を中心にしたハワイの民族信仰の中でもとりわけ重要なものに「マナ」がある。
これは、万物に宿る生命力と言ったらいいだろうか。東洋思想の「気」にも例えられるかも知れない。マナは神々に繋がる力として考えられてきた。
各酋長はマナの力が強いとされ、それを受け継ぐ形で酋長は世襲されてきたようだ。マナは血族間で受け継がれるのが摂理だと言う。
ここでいかにも民族信

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小春日和には

小春日和には

色付く葉のすぐそばで、ひっそりと咲く秋深い時の花を見た。
この季節、昔ならば年末年始のあれこれを思い、慌ただしさも楽しみも感じていたものだった。
それが今では繰り返し考える。
自分が生きてきた年月に、やってきた事やってこなかった事を。
委ねるとは真にどういった事だろうか。単に右往左往しないと、それほど単純な事なのだろうか。
わたしにできるだろうかと。

これから小春日和の時には丹念に掃除をしよう。

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空高く生まれ土深く潜る

空高く生まれ土深く潜る

この冬神話部は三周年を迎えた。このタイミングで神話全体について思う事を少し書いてみたい。

想像するしか無い事を前提とした上で、世界各地の神話についてかねてより感じていた事がある。
全体的な話としてより古く、オリジナルに近くなればなるほど、神話は心のありようや心の作用といった領域については、さほど深入りしていなかったのでは無いか?という印象をわたしは持っているのだ。

後に出てくる、確固とした教説

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一語一語が育てた文芸

一語一語が育てた文芸

秋の季語に桐一葉と言う言葉がある。
桐の葉が一枚散る様を見て秋の訪れを知る。季節の移ろいを受け入れて黙って落ちる姿に、衰微の兆しを感じると言った意味を持つ。

人の心の機微を内包した情緒豊かな言葉が季語には多い。
季語に定まらない言葉にあっても、豊かな表情を持つ語句が、日本語には多く存在する。

日本人が俳句と言う文芸に行き着くまでには、長い長い歴史が存在する。
実際に節をつけて歌われていたであろ

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とある和歌

とある和歌

 平安時代に勅撰和歌集として編纂された古今和歌集の中から、現代において最も広く知られている短歌について書いてみようと思います。

我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで

 わたし達が知る歌は冒頭が「君ヶ代は」ですが、時代を経て変わっていったようで、江戸時代に入ってこちらが主になったようです。

 実はこの和歌は、朗詠のための和漢朗詠集にも収められているのです。場合によっては少し節

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