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秘めたるは


先週、小難しいコラムを前後編にして投稿した。
誰に向けてと言う訳でも無く、およそ単なる忘備録の類だ。誰かの役に立つわけでも無い。

ずっと以前、ひとつのエッセイのコメント欄で、神話部部長の矢口さんから「翠さんの歴史文学に対する史観がわかったように感じた」と、そのような言葉をいただいた。
自分でもよく掴めているかどうかわからないが、わたしがコラムに出すものの多くは、確かに創作・文芸と向き合う際の肝になっていると感じる。
だから、忘備録とは言え書いているのだと思う。

さて、どちらかと言えば「残念」と言う立場で書いた世阿弥のコラム。
実名を元清という彼は、少年時代から連歌の才に秀でていた事でも知られる。能の詞章に和歌を取り入れている事からもそれが伺える。

元清の幼名、藤若の命名者である連歌の大家二条良基は、連歌の質的地位的向上に努めた人物である。
連歌を「幽玄の境地に立った上でのもの」としており、元清が影響を受けていないとは言い難い。
良基も元清も「幽玄」を「優美なるもの」と解している。
それまで遊興の色彩が強かった連歌を良基は嫌い、より権威付けされた連歌論を示した。
それは、元清が遊芸として有った猿楽を半ば否定し、神楽由来の申楽として高みを目指した手本となり得たのだろう。
そこに、良基や義満の庇護を受ける元清の執念をわたしは感じる。
猿楽は物真似や曲芸といった、ある種猥雑さを持つ散楽が由来だ。演者の生来身分は下層の中にあったとされる。ものの本によれば、高貴な人々の寵愛を受ければ受ける程、少年だった藤若を「所詮散楽者」と、ひそひそ揶揄する者が少なからずいたと言う。

──川底から満天の星空を掴むがごとく──

能楽の第一人者として数々の作品を生み出した元清も、晩年になってその地位を追われ、失意の中で生涯を閉じたと言われている。

秘めたる花を咲かせきったと言えるかどうか。
名作は今に残る。

こうやってまた、胸に湧き上がるものを書き連ねた。
「だからなんだ」と、言うわけでもなく。


#コラム #随想


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