優しさってなに

 今日のテーマは「優しさ」について私見を述べようと思う。というのも、僕はこの「優しさ」について、この世界の大半の人間よりも考えた自信があるからだ。それは、僕が人生の目標として「優しい人間になる」という事を念頭に置いているからで、優しさについて必死に考え続けた人生だと思う。だからといって、必ずしも僕が優しい人間であるかと言えばそうではない。目標を目指して毎日努力しているのであって、24時間365日優しい人間でいる事はできない。欲望もあればわがままもあるし、不機嫌な時もある。何より僕は怠惰だ。

 僕が何故優しい人間になりたいかというと、根本的にネガティブな理由に基づいている。要するに「他人に優しくすれば自分も優しくされる。自分が傷つきたくないから、相手を傷つけない」。これだけだ。これだけの理由だ。

 読者諸賢ならお気づきかと思うが、この理論は成立しない。綺麗事にすらならない。他人に優しくしたからといって自分が優しくされるとは限らないし、相手をどんなに傷つけなかったとしても相手が僕の事を傷つける事もある。第一、僕がどんなに努力した所で相手を傷つける事もあるだろうし、主観的にしかこの世界を観測できない以上、どんなに科学が進歩しても相手の心は分からない。

 なんだかエヴァンゲリオンのテーマみたいになってきたが、基本的に他者がいる限り不確実性は残り続け、相手が何を考えているのか分からない不安と恐怖がつきまとう。「相手が何を考えているのか分からない」という不確実性が世界の核武装や防衛費にまで直結していて、僕たち人類にとって他人への不安と恐怖、絶望や虚無は必然なのであり、本能的なものである。そして、人類はだからこそ地球で繁栄できたという進化論にも繋がるんだけど、長くなるのでまた今度ね。

 とにかく、だからといって「相互理解は幻想であり、一生他人のことは理解できない」と絶望して良いのはせいぜい大学生くらいまでで、その絶望が如何に下らないかを今一度確認しよう。

 確かに相互理解は不可能だ。相手の腹の底など一生涯分からない。ただ、だからこそ僕たちは言葉を用いてコミュニケーションをして1%でも1mgでも相手のことを理解しようと努力できるのだ。相手を信じようとすること、相手を理解しようとすること、相手に興味を持つこと、言葉を大切にすること。それらを実現させ、また努力するのは相手のことが分からないからだ。テレパシー等を使って完全な相互理解が可能な生物には全て不必要になる。要するに「相互理解が不可能で絶望する」というのは「死んでしまえば全て終わり」と同じでナンセンスだ。事実ではあるが、何一つ建設的ではないし面白みもない。相互理解の不可能性が僕たちのコミュニケーションへの努力を可能にするし、いつか死ぬからこそ毎日努力して生きる事ができる。

 すっげえ話逸れたけど、書きたい事書くのがエッセイだしいいよね。

 優しさの話に戻すんだけど。「優しさってなんだと思う?優しい人間ってどんな人間?」と質問されたら皆んなどう答える?読者諸賢にここで一度考えてみて欲しい。長くなるから、次回のエッセイでこの質問への僕なりの答えを書くんだけど、その前に自分の答えを用意しておいて欲しい。優しさについて本気で考えてみて欲しい。

 ココアちゃんからの宿題です。優しさとはなんでしょう?優しい人間を目指して30年間生きてきた僕が考える優しさとはどんなものでしょう。理由付きで考えてきてください。次回のエッセイで理由付きで説明します。

今日はここまで。読んでくれた方ありがとうございました。


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