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最適な職場環境を選択することと、自分自身を知ること ―過去の職場環境と当時の心境を振り返る―


只今失業中の為、次の働き方や働く場所について考える時間が増え、比例して過去に働いてきた環境について振り返る時間も増えてきた。前々職・前職での環境について、感じてきたこと、思い出したことを書き留めておきたいと思う。

ストレート過ぎる表現がアイタタタタタ‥‥かもしれないけれど、今このタイミングだからこそ書けることを書く、という選択を取ってみる。



前々職|お茶出し!お菓子配り!!お掃除お母さん!!!の気遣い文化と小賢しい女?


前々職は都内で働いていた。とは言え地方に本社がある中小企業だった。20代の社員は片手で数えられる程度。40代オーバーが多数。今思えば「都内で働いている」という当初抱いたイメージからは離れている社風だったように思う。ただ私はこの会社に就職した時既卒だったし(新卒入社ではなかった)、初めて正社員として企業に就職したので、「これが会社で働く(≒オフィスワーク)ということか‥‥」という感覚をまずは知ってみたかった。

社会人経験が何もない私は、会社で働いていくことができるのか未知数だったし、郷に入れば郷に従えと受け入れて、最初は教えてもらうがままに実直に動いていた。

しかしこの職場には、営業アシスタントである女性社員から他社員へのお茶出しや、15時のおやつの時間(文明堂か!)にお歳暮等でいただいたお菓子を全員に配布、女性社員が気を利かせて手すきの時に掃除を行う、という気遣い文化があった。「これは古い会社ならではのやつなのか‥‥」と他社を知らないくせに感じていた。

お茶出しとお菓子配りは、女性社員が日替わり当番制で行っていた。勿論来客時にはお茶出しすることは仕事の一環なので、当たり前の業務として何の疑問も抱かなかった。ただ、お昼休みに他の社員たちへお茶を淹れてあげる文化と、お菓子をわざわざ配ってあげる文化には違和感があった。

その違和感は

「自分の飲み物くらいみんな自分で持参しないのか?」
「持参しないにしても、淹れたい人が自分の意思で自分の飲みたい分を淹れれば良いのでは?」
「お菓子くらい食べたい人が自分で取りにいくのだから、ご自由にどうぞ形式で良くないか?」

というものだった。

例えば
「仕事が立て込んでてお茶淹れる時間も買いに行く余裕も無いから、お茶淹れるのお願いしても良い?」
と言われれば喜んで引き受ける。でも当たり前かのように毎日、しかしながら「気遣いの範疇で」行うのは何だか釈然としなかった

また飲み終わった湯呑を回収して、洗い物をするのも全部女性がやっていた。ん?私はあなた達のお母さんではないのだが‥‥?!と頭の中で文句を垂れてしまう私は、『逃げるは恥だが役に立つ』のみくりさんが自分を卑下する時に自称(?)するところの「小賢しい女」ってやつだったのかもしれない。

そしてこれにはまだ問題があった。仮にその日の当番が自分だとして、自分のタイミングで洗い物やらをするつもりでいても、気を遣ってくれた先輩が先に黙って動いてやってくれてしまう時があったりする。やってくれたことに対して口では感謝を伝えるものの、その気遣いを素直に受け取れずに「今日は私が担当と決まっていて、やるのを忘れていたわけではないのに何で‥‥」と妙な悔しさが募ってしまう、という何ともこじらせた状況になったことも多々あった。

要は私はお節介するのもされるのも、気を遣うのも遣われるのも得意ではない人間なんだなと悟った。そのことに対し、人間としてこれで良いんだろうか?と自分を疑わなくもなかった。人に優しくしたくないわけじゃない。誰かに何かしてあげたいなって自然に思って行動できれば良いのだけど、でもまるで義務かのように業務外で求められるのはどうしても釈然としない。責任の範囲がはっきりしないと動けない、石頭ちゃんだ。でもこういう問題って家事分担とかのモヤモヤでありがちで、近年ドラマとかネット記事とかで取り上げられるやつに近い感覚なのかしら。

掃除に関しては、業務の合間に先輩のおばちゃんが「私手がすいたから掃除するね」と言って業務中に掃除し始めて、「あ、これは私代わりますって言わないといけないやつか‥‥?」なんて気を遣う場面も多々あった。ルール化されていれば気を遣わなくて済むのに‥‥。

後にそのおばちゃんが退職して、また別の先輩の意見で「掃除は始業前に、私たち(先輩と私の2人)が日替わりでやろう」ということになった。ここでもまた疑問が‥‥。そもそもなぜ女性だけで掃除しなければならないのか、このフロアを使っているのは私たちだけではないのだから全員が掃除する義務があるのではないか。掃除すること自体が嫌なのではないけれど、これは営業アシスタントの仕事なのだろうか。そんなモヤモヤがあった。それでもそのモヤモヤはそっと胸にしまっていた。

書いていて気づいたが、この「ナゼナゼ攻撃」で責めたくなる感じ、私がされたら嫌なやつなんだよな、この記事で書いた通り。人間とは矛盾だらけですね‥‥。攻撃するのは良くないけど、疑問を抱いた理由を伝えれば、人と人とは相手を受け入れ合えるだろうか‥‥。


次第に勤続年月が長くなることで意見も言いやすくなっていき、社内で毎月改善提案書を提出する機会もあったので、遂に「掃除は皆で時間を決めて一斉にやりませんか?その方が掃除も早く終わるし、その分本来の業務の効率も上がる」と進言した。ごにょごにょ女性社員同士で愚痴を吐く風潮も嫌で、変えたいことは実現すべくいずれはっきり伝えるべきだと自分に対して思っていたので、正規ルートでしっかり進言できてスッキリした。
そこでやっと全員で場所の分担をして、決まった時間に一斉に掃除をすることになった。(掃除なんかしたくない、面倒くさい仕事を増やされた‥‥と心では思っていた人もいるかもしれないけれど。)

当時は古い体制や価値観にモヤモヤしていることが多々あった。でも受け入れられるかは別として、意見を言わせてもらいやすい雰囲気ではあったし(意見を言ったらその改善方法の策定や実行もその社員に委ねられることがほぼほぼなのだけれど)、温厚な人が多く、アットホームな雰囲気の会社だった。所謂良い人が多いからか、勤続年数がめちゃくちゃ長い人が多いのも特徴だった。ただその分成長意欲は低く、ナチュラルに進言すると「何であなたはこのやり方に疑問を持つの?気持ちはわかるけど、今までのやり方がこうなんだから仕方ないでしょ‥‥」みたいな諦めを言われることも少なからずあったし、もうこれ以上多忙になりたくないから責任のパイを部署間で投げ合う‥‥みたいなことも多かった。

すっごく良い人たちが多くて、のびのび生きさせてもらっていたんだけどな‥‥。責任を取ってくれる上司の下で守られて、言いたい放題言ってただけなのかもしれない。

当時の私はそんな環境に対し”ぬるま湯に浸かっている状態”だと感じ、「このままで自分は良いのか?」と思っていた。日々外から入ってくる情報と、自分が居る環境にあまりに乖離があり、自身のビジネスに対する知識もスキルも同世代より劣っているのを感じる。時代から取り残されているのではないか、という錯覚に陥った。それでもこの体制で100年以上成り立ってきた業界であるし(それだけニッチな業界でニーズのある商材を製造しているということ)、私の知らないところで闘っている社員も大勢いたのだろうけれど、もっと違う環境に身を置いて、世間や今のビジネスの在り方を知っておきたいという気持ちが強くなった。
好奇心旺盛な性質は、時に厄介なものである。隣の芝は青く見えるってやつだろう。もしくは「井の中の蛙で居たくない!こんな田舎はさっさと出たい!」と思う思春期の高校生だろうか。何より自分も大して成長できていないくせに批判性が強くなるばかりで、どこか本気になり切れない、そんな自分の精神衛生への嫌悪感に抗えなくなっていた。仕事をしている時間も人生の大切な時間を使っているのだ、有意義だと感じられる時間にしたい。


前職|全力疾走フルマラソン!!!


その他諸々の事情もあり転職に至り、入社した前職はベンチャー企業だった。まぁ前々職とはだいぶ違う社風だった。社会の動向や顧客に合わせて自分達もどんどん変化していく会社だ。ガッツもあって、仕事に対する熱意もあって、成長意欲がある人がほとんどだった。というかそれがないとやっていけないくらいにはハードな現場だったし、ガッツや熱意で多忙さをも吹き飛ばそうとする社風に入社当初から気圧されていたのが正直なところだった。お茶出しからのギャップが凄すぎたのかもしれない。
(でも実はお茶出し的気遣い文化は同じように有った。振り切ってでも「私代わります!」って言わなきゃいけない葛藤が起きたし、気遣い以上に自分から仕事を取りに行く姿勢を求められた。日本社会においてはこういう文化が根強いのかもしれないし、気遣いが苦手なのに一番気遣いに執着しているのは自分なのかもしれない。)

お昼休みを社内一斉にとるなんてことはなかったし、もはやお昼休みは無いに等しかった。お昼ご飯を食べながらパソコンに向かって仕事をしていたし、電話対応もした。最悪退社までに何も食べられずに帰宅することも少なくはなかった。郷に入っては郷に従え。ここでもそんな環境に驚き、昭和のモーレツ社員風味を感じつつも、従うことを選択した。

全力で仕事をして、全力でやったって追いつかないことも多かった。自分のできなさに向き合うことの方が多くて、誰かに対して批判性を向けるということもあまりなく、ただただ必死。全速力でマラソンを走り続ける。脇目もふらずに仕事に邁進する。そのことにおいては前々職に比して精神的に全うに歩んでいたし、自分の嫌な部分を見ずに済んだと言える。毎日フルパワーでやり切って、エネルギーを全部出し切って帰宅する。だから家に着いたら化粧も落とさず即布団にダイブ、と言いたいところだけど、脳味噌が覚醒していて眠れないので、食べそびれたお昼ご飯を無心で貪ったり、ただただスマホをスクロールしていた。

結果そんなマラソンは息切れと共に徐々に減速し、結果1年で途中棄権してしまったのだけど、この経験で自分の限界と適性をよく知ることができたように思う。好奇心によって動く旅は山もあれば谷もあるけれど、自分を知っていけるのは楽しいことだ。

前々職のエピソードと比べるとだいぶ短いけど、正直細かいエピソードを思い出せるほど記憶が残っていないのが正直なところだ。それだけ没頭して仕事時間を過ごしていたということ。こういう経験は、人生で何度かは必要なのだろう。



今の自分にとってのbetterな環境で、あらゆるバランスを取りたい


ある種両極の環境を経験したから、もうデータは出揃ったって感じだ。次は清濁併せ呑んだ上でどんな環境を選択するか問われている。働き方が多様化し、石の上にも三年が正義ではなくなっている世の中とはいえ、正直短期離職をしてしまって20代での経験社数が増えていることに焦る気持ちが無いわけではない。
自分にとって最高な環境というものはなかなか無い。「置かれた場所で咲きなさい」なんて言葉もあるくらいだ。嫌な部分があったとしても多少目を瞑るか、その環境に身を置いたまま自分事として健全に仕組み改善に取り組むことが必要なのだろう。しかし”best”まではいかなくても”better”な環境を軽やかに選択できるに越したことはない。その時々で自分に合う環境も変化する。

私は社会人になる前にも、この2つの環境のように精神面で両極の状態を行ったり来たりしてしまうことが多かった。まるで躁状態と抑うつ状態のように‥‥。ある一定のスパンで2つの波を繰り返してしまう。自分をコントロールできずに、バランスを取ろうとするが故に極端に振れてしまう。自分を理解するのは簡単ではない。でもこれはもはや体質だと思って受け入れるのが楽かもしれないと最近は思っている。

働くことへの価値観として、本当はワーカホリックへの憧れと、没頭できることの羨ましさがある。けれどこの体質を上手く利用していくには、複数の場所と時間の全てを全取りしてバランスを取っていくというのが最適なのかもしれない。これはあくまで仮説で、理想論に過ぎないかもしれない。「ワーク・ライフ・バランス」という言葉に収まらないような、あらゆるバランスをとることで人生全体を全部充足させていくような。

仕事の時間を有意義に使いつつ、身体も心も健全に、本当に自分が人生の中で叶えていきたいことを続けていける環境に身を置いて、あらゆるバランスをとっていけるように。そんな模索を楽しんで生きていけるといいな。




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