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ナゼナゼってドキドキする。-質問することとされること。言語化の葛藤-

なんで?どうして?と聞かれることが嫌いだった。
瞬発的に言葉にできなかったり、考えがまとまらないからだ。

言語化が苦手だったのも理由の一つだ。何でもかんでも理由があるわけではないと思っていた。それに「答えなきゃ‥‥」と焦ってしまって、なんだか責められている気分になって、「責められている‥‥」という思考だけが頭の中を占めてしまい、思考停止してしまうこともあるからだ。

もう一つは、幼い頃母に叱られた時に「なんで?理由を言いなさい」と言われていた。でも別の時には理由を述べると「言い訳するな」と言われることもあった。ん?この間と言っていることが違う‥‥理由と言い訳の違いは何?訳が分からなくて閉口する。そんな感じで瞬発力でどんどん口に出すということが苦手になった。”よくよく熟考してからでないと動けない”人格形成がなされていったわけだ。

しかし良かった面もあって、自分の頭の中だけで熟考しまくっているので、内省する力がモリモリについたのである。内省ができるので、あとは言語化の訓練をするだけ。言語化は口に出さなくても、外に出してしまえばこっちのもの。頭の中にだけあったものを文章や言葉の断片として外に出すようになった。それはSNSのおかげもある。そうしている内に、昔より言語化することは得意になった。



自分は言語化するのがある程度得意になったので、誰かに質問されることにもそこまで抵抗感がなくなってきた。
しかし自分が聞かれるのが苦手だったから、人に聞くのも苦手だった。以前の自分と同じように、質問されることを苦に感じる人が多いのではないかと勝手に感じてしまっていたからだ。質問して3秒くらいで答えられなかったら、「難しいですよね、答えられなくてもいいですよ~」と流してしまうこともあった。それから、その質問の答えを勝手になんとなくで察してしまうことも多かった。

でも、仕事で顧客に質問することが必要になった。顧客にしっかり理由をヒアリングできていないと、「なぜ理由を聞かなかったんですか?」と先輩に言われることが多々あった。理由の内容によって対処法が変わるから、ヒアリングは必須だったのだ。私は先輩に怒られたくないので、意識して聞くように練習した。しばらくすると意識しなくても質問する習慣が身に付き、遂に質問を投げかける抵抗感もなくなった。質問することの意義も理解できるようになった。沈黙があっても、その沈黙を無理に遮らないようになったし、それでも難しい時には質問の角度を変えるように工夫した。
そもそも質問するということは、顧客に対してより良い提案をしたい、相手のことを知りたい、という気持ちが大前提必要だとのちにわかった。人は誰かから「自分に興味を持ってくれている」と感じることが出来るのは嬉しくないですか?と先輩に言われてハッとした。(もちろん人によると思うけれど‥‥)



少し前、母の職場で、接客の様子をバックヤードから聞く機会があった。
お客さんに「何でこの店に来ようと思ったんですか?」と聞いていた。そのお客さんはしばらく言語化できなかったようで3秒くらい沈黙があった。この状況を傍から聞いていた私はすぐに、「うっ、困っているんじゃないかな‥‥」「責められているように聞こえたんじゃないかな‥‥」と感じてしまった。その時正直、以前の感覚を失っていない自分に少しホッとしてしまった。

今や私は相手に質問すること、対話することの重要性を感じている。
でも未だに、質問される側の恐怖感を勝手に察して(勝手に決めつけて)、共感してしまうところがある。

質問者は相手の隙に入るような余白や、無理に聞き出さないような質問の仕方、言葉選び、質問する理由の先出し、表情、何より信頼関係が大切なのかもしれない。尤も、対話の蓄積によって信頼関係は成り立つものかもしれないが。

しかし生きていく中で、本当に言語化できることだけが正義なのだろうか。偶には言語化できない時間も大切なのではないだろうか。
ビジネスの場では言葉での対話が必須だと思う。ただ、「何でも言語化すれば良いわけではない」と思っていた頃の感覚も失いたくない。何と言ってもコミュニケーションの方法は言葉だけではないからだ。言葉にならないことは豊かだし、言葉だけが信頼に値するわけでもない。言葉にできない余白も大切にしたい。言葉以外の方法で人と繋がれるようになりたいなぁとすら思う。



「”言葉にできるようになる前の時間”を共有できる相手が、一緒に居ることができる人」

以前SNSのどこかで見かけた。

まだ見つからない答えを一緒に探していける。見つかるまでの過程、間違っているかもしれない過程を対話し許し合える。そんな存在が人には必要なのかもしれない。




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