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脳みそも、感覚も、しぼまぬように。

"なんとなく"という感覚は、実はとても尊いものなのかもしれなくて。
そして時にその"なんとなく"に自分を委ねられる、というのも。

人間だってみんな持ってるはずのこの感覚が、「尊いもの」となってしまうのは、これを削られる機会があまりにも多いから。

私たちは幼少期から、
なんでそう思ったの?どうしてその選択をしたの?
と、その「なんとなく」をなんとなくでは終わらせてもらえない場面に幾度となくぶち当たる。

そんでもってややこしいのは、人間には脳みそがあって、"なんとなく"にもそれなりに理由をつけたり、それっぽい説明をつけたり、ができてしまうということ。

もちろん、"なんとなく"を辿っていくことで見えてくるものもあるし、そんな会話が楽しいときもある。
でも、なんとなくだけでは行動できない、許されないようなシステムや風潮で埋め尽くされてしまうと、その人の"なんとなく"の感覚がどんどん萎んでいってしまうんじゃないかって思う。

私は雑草と対峙するとき、なんとなくでしか見てないし、なんとなくでしか見れない。
やつらがいきなり本音を喋りだすことはないし、質問に律儀に答えてくれることもないから。
もはや私のやつらへの愛は、なんとなくでしか出来ていない。それでもこんなにも、強固で、執拗。

人間だって、本当のところなどわかんないんじゃないかって思う。相手も、自分も。
脳みそで追いかけても、感覚には辿り着けない。感覚を追いかけても、脳みそに辿り着くとは限らない。

だから、なんとなく、をなんとなくのままにしたっていいじゃない、と。
なんとなく、は悪いことじゃなく、尊重される感覚であってもいいんじゃないの、と。

雑草たちは、ある意味、なんとなくの塊なんじゃないかって思う。
なんとなく今だと思って芽を出し、葉をつけ、花を咲かせ、実を結び、種を残す。


なんとなく風を感じたり、温度を感じたり、日差しを感じたりしながら、その時その時の感覚を頼りに、覚悟を決めている。

"なんとなく"を研ぎ澄ますことで生きている。


言い換えれば本能、なんだろうけど。
生き物にとっての本能は大事なはずなのに、なぜ"なんとなく"はあまりプラスのイメージを持たれないのか。

それはやっぱり、脳みそ、頭脳で。
考えられる脳みそがあるんだから、理由や意義を見出し、言葉にしないことは怠惰である、のような。
私自身、言葉にするのは好きなほうだし、自分の感覚をどう言葉にのせて表現するか考えることも多い。でもそれは、他人から強制されたり求められてやってることではなくて、楽しくてやってる。面白いから。

一方で、なんとなくを、なんとなくのまま放置して、感覚を解放している場面も同じくらい多い。

脳みその追放。解放。
感覚の追放。解放。

脳みそとのうまい折り合いのつけ方というのは、誰も教えてくれないし、時代によってバランスも変化するものだし、人それぞれだから、自分で探っていくしかないんだと思う。
だからこそ、勝手に他人の感覚を追放してはいけないよな、と。

一度しぼんだ自分の中の"なんとなく"を、それに自分を委ねられる程たくましく膨らましていくのは、なかなか難しいと思うから。

自分に対しても、他人に対しても、"なんとなく"を尊重できる人間で、在りたい。

なんとなく、好き。
なんとなく、嫌。
なんとなく、幸せ。
なんとなく、不安。

その積み重ねの中で、なんとなくの源に触れることがあるかもしれない。根源にふと気付くことが、あるかもしれない。
そんな時にはきっと、脳みそも感覚も解放されて、一体となって、あぁこれが自分にとっての気持ち良さであり幸福なのか、と全身で腑に落ちるんじゃないかなぁ

と、なんとなく。


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