見出し画像

596/1096 生きたまま、さよなら自分

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で596日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

596日目、娘がロックダウンのために家にいるようになって数ヶ月間、平日は毎日家でオンラインの授業を受けている。娘はこれを始めからすんなりと受け入れてどうやら楽しんでいる様子だ。それはいい。嬉しいことだ。

しかし、そこには一点、困ったことがあった。実はある先生の声が嘘みたいに大きく、かつ彼女は授業の間、文字通りまったく休むことなく話しているのである。授業中ずううう~っと、ひっきりなし、休みなしに。

あの先生は、間違いなくたったの1秒たりとも息継ぎをしていないはずだ。全集中の呼吸・常中をし続けられるある種の鬼なのである(鬼滅狂ごめん)。そのうえ娘はその授業をこれでもかというほどの大音量で聴いている。それが、家中どこにいても聴こえるほどなのだ・・・・!

これはわたしにとって、由々しき問題であった。わたしはそもそも騒音があると文章を書くことができないという症状を持っていたのである。であるからして!今日までとにかく!先生うるさっ!!殺人的にうるさっっっっ!!という思いでいっぱいであったのだ!!

わかっている・・もちろんのこと、娘にイヤホンを使ってもらうという手もあった・・・しかし、なぜだかわたしは「自分がこれを問題としない人になってみたい」というおかしなチャレンジ欲求を抱いてしまった。それがなぜか、超人(キン肉マン世代ゴメン)への道へとつながっている、という気がしてしまったのだ!!皆さんにもそういうことがないだろうか?!まあそんなわけで、これまでそれへの挑戦が毎日のように続いていたのである。

そう、そして・・この挑戦をはじめて早数ヶ月。わたしはそれに修行の成果めいたものを出した。まず、わたしはこれほどの騒音の中で問題なくブログを書くことが可能になっていた。心頭滅却。人間、やろうと思ってできないことはないのだろう。人の慣れとはげに恐ろしきものである。

しかし・・・!!しかしなぜなのだろう、変わらぬのだ・・・体調が整わず集中を欠いたときの、あるいは作業を終えたあとの、先生うるっっさ!!の反応は決して変わらぬのである!!イタリア人は話し声がべらぼうに大きい!!わたしはそれが好きだ!!しかし休憩時間にまであの声を聞くのは嫌なのだ!!うるっさいんだァアアアアーーー!!

というわけで、あの鬼の先生の授業のある時間には、大人しくノイズキャンセリングヘッドホンを使っている。ソニーのとにかくいちばんいいやつなんだっ!始めから使えばよかったでしょうって?そうさ・・それが正解だ。

しかし人間はどこかで、超人化への終わりなき憧れを持っているものなのではないだろうか。今わたしは己のその憧れに従ったことへの満足感に満たされている。今やどんな騒音の中でも、集中さえすればブログを書くことができるのだ。なんと嬉しき変化であろうか。問題とは常に宝箱である。

今日はこの満足感を持って執筆に当たろう。
ああ、いい気分だ!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

みなさんは、なにか愛着のあったものを失うなどして、最近では~ロスと言われる喪失感に襲われることがあるだろうか。

わたしにはこれまで、何度もそういう思いに囚われたことがある。最たるわかりやすいものは、実家と、日本に住むことだった。最近では鬼滅の刃や若かったころの両親についてそんな思いを抱いた。

失ってしまった実家、今は別の人が住んでいる。夜逃げをして何年も経ってから見に行ったらば、外壁が塗り直されていて、住人がいるのが判った。誰かが、あの愛しき家に暮らしている。それを遠くから見て、何事もなかったかのように去った。平気なふりをする以外にやれることがなかったけれど、なにかが張り裂けてしまって言葉がなかった。

わたしは、ボロアパートから新築のあの家に引っ越した日の、待ちに待ったものが叶った喜びを覚えている。父が苦節の末に建てた家だった。わたしは自分の部屋と、ベランダとがとても好きだった。あの階段を駆け上がるのが好きだった。妹と一緒に湯船に入るのが好きだった。二階のあの部屋は自分の部屋だという感覚が拭い去れない。だから、悲しみが深く、あまりにも傷つきすぎてしまって、悲しみ切ることすらできなかった。涙も出なかった。
わたしの浅い人生経験における、究極のロス体験だった。

日本に住んでいた間のことも、ものすごく切なく思い出されることがある。お祭りや、屋台、TSUTAYA、おにぎり、日本の本屋さん、日本の漫画、いろんなものにあまりに愛着があって、一心同体のように思える。だからそこから離れていることは、ただただロス感でしかない。日本、日本・・・夢にまで見る愛しき祖国だ。このためにいつだって泣こうと思えば泣けるほどだ。

そして最近は、「自分自身」のことをそう思うようになった。今日はそのことについて書いてみようと思う!

わたしは自分ロスになることがある。もちろん今はまだ自分は生きているのだけれど、自分の生きていた間に感じた、身を切るような切なさ、つらい悲しみ、なにかを愛しく思った感覚、美味しかった味、寂しさ・・・・そうした瞬間瞬間のみずみずしく生々しかった感覚たちは、その瞬間の自分にしか感じられなかったことだ。今となっては、自分にすらその感覚を、その瞬間とまったく同じようには再生することができない。

そのことを、まるで己の死後のように切なく思う。確かに脈を打って生きた確かにここにいる自分という人の一生のうちに感じたたくさんの感覚が、まるで流れ星のきらめきのような一瞬のものでしかないと思うと、切ない。それは、誰にもわかることのできない、誰も知ることのないもの・・・永久に明かされない秘密のように。

生きるということを、ひとり秘密を紡いで消えていくことだと思ったときに、これを寂しいと思うか、悲しいと思うか、安心だと思うかはそれぞれだけれど、わたしは自分という人がいなくなることから目を背けたくないと思う。わたしが自分を失うことをどこかで認めず、その切なさを思う存分感じることから逃げていたら、きっとわたしは心のどこかにいつも「目を逸らしている」気がすることだろう。わたしはいつか、わたしではなくなってしまうのだ。

なぜそんな切なさをわざわざ味わいたいのかと言うと、それを感じるたび、死後の自分の感覚に意識を向けるたび、そこから目を逸らしている間には決して感じられることのないほど、「嗚呼、今、生きている!!!!」という感じが鮮やかになるからだ。今はまだ心臓が動いている。今はまだ脈が打っていて、息を吸ったり吐いたりしている。なにかに触ると触感がある。口の中は潤っていて、音楽を聴くことまでできる。水にもさわれるぞ!

まだ他の人が生きている姿を地上で肉体のあるまま見ることができる、まだ交流する体験を味わえる。まだこの先の自由時間がいっぱいある。たとえその体験は流れ星だとしたって、瞬間瞬間の、今このときだけの、自分の生々しい秘密の勝手な楽しみを紡ぐことができる。まだこのときわたしは、たくさんの流れ星を宇宙に放ち続けている、生きた生命体なのだ。

そうすると、なんだかもう、さっきまで心配していたことがちょっと滑稽になる。外し方のわからなかった余計な心配事の鎖は、自分が必死に握りしめていたことに気がつくことができる。ちょっと可笑しくなって、「それにそんなに本気でかかずらうこともなかったね」と自分に微笑んであげられる。

そして、「そんなことはいいから、せっかく地球にいる間、遊んでおいでよ」と、死後の自分が生きた自分に言ってあげられる。そんな気分のときに誰か他の人を観ると、どうかその孤独の宇宙で幸せにいてほしいと思う。わたしには、自分がこんな気持ちになることが、自分ロスの切なさを引き換えにしてもおつりが来るほどの安楽だと感じられる。

生きたまま自分の死後の感覚に触れることは、その他の行為からはなかなか包まれにくい安心感へとつながっている。自分ロスの究極の切なさは、自分自身への無償の愛と憐れみとつながっている。

今の生きた自分の目をとおして見るこの世界の景色は、時の概念によってただ垂れ流すように失われながら、宇宙に放たれて永遠の光になる。今このときもそれを放っているあなたは、他のどんな要素に劣ることも優れることもなく、星や月や花と同じように、宇宙自身の望みなのだ。

どうか同じ時代を、心豊かに過ごしましょう。自分に起こることは、宇宙の出来事。宇宙を味わうように、死後に生前を懐かしむように、今ここに選択の自由があることを不思議に思いながら、生きましょう!

というわけで今日は、自分ロスの切なさから人生の儚さを思うと、どんなふうに楽しんでも良いと思えますね、という感覚のシェアでありました。
それではまた、明日ね。

【オフィシャルサイトです】

オンラインでの個人セッションや、オンラインサロンのご案内ほか、さまざまな情報がチェックできます!ぜひ見に来てね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)