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514/1096 『孤独感』の活かしかた

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で514日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

514日目、晴れていて風もない穏やかな土曜日。ヴェネツィアはほんわかとした雰囲気に包まれている。

わたしは昨夜寝違えてしまって、首が痛くて執筆が大変だ。。今日みたいな日は頭もスッキリしていなくて、お出かけしてゆったりと街を歩いたり、カフェで本を読んだりしてのんびりしていたい。

でも今のわたしにとって、できることをやってあげるのが自分へのご褒美でもある。だから頑固にも今日も書こう。今日もせっせと自分にプレゼントするつもりで書くのだ。がんばれがんばれ自分!

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みなさんは命の危険を感じる場面に遭遇したことあるだろうか。
これまでにほんの数度ほどだけれど、わたしも経験したことがある。

高いところから落ちそうになったときや出産中などに、チラッと死ぬかもしれないと思ったことがあるが、一度はイタリアに来てから、溺れかけて助けを自力で呼べなかったとき。夫が気づいて助けてくれたからよかったものの、そうでなかったらちょっと危なかった。

海岸から数十メートルほど沖の浅瀬を抜けたところで泳いでいたときに、何らかの原因で突然水位が上がった。ライフセーバーたちが一斉に注意を呼びかけている。わたしはひとりはぐれていて、とつぜん水が盛り上がって顔が水に浸かったことに驚いて、人々から離れたところで両足を吊ってしまった。

肉離れかと思うほど痛みが強烈だったため、泳ぐことができなくなり、わたしは鼻を水面から出していられなくなった。動けば熾烈な痛みがあり、少しでも止まったり水が動いたりするたびに顔が沈んだ。呼吸が困難になってきていよいよ危機感を感じ、ほんの短い間に、今自分はひとりでは抜けられない状況にあると悟った。気持ちの向く方向がひっくり返って、助けがなくてはダメだ!と思った。そのとたん恐ろしさが全身を襲って、無我夢中で手を降ったりなどの合図をしてみた。助けて!誰かこの手を見て!

きっと気づいてもらえると思ったのだけれど、その動きが確認できない。
そのときはたと思ったのだ。「死ぬ可能性がある」と。

そのときの感覚を今でも覚えていて、自分が感じたのは普段感じることのない圧倒的な『孤独感』だった。もちろん当然のことなのだけれど、自分の死に直面しているのって、まったく自分一人だけなのだ。

わたしは誰とも共有することのできない事象にひとり向かっていた。この世でわたしだけが、自分自身の死という現象の観察者になれるのだと思い当たった。こんな状況なのに、超絶独りじゃん・・ってそりゃそうか!と合点がいく、ということが起こったのを覚えている。

その圧倒的な孤独感に、わたしはいつだって独りなのだと思い出させられたような感じがした。他者と一緒にいるときにも、他者に対して一体感を感じているときにも、他者と互いに共感して通じ合っていると感じているときにも、わたしはずっといつでも『独り』だったのだと思い出して、我に返ったような感じだった。「わたしは、本来こうしてひとりなんだ・・・!」と思った。

結局わたしは、そのあとなにかが弾けたみたいに猛獣のような生きる意志に襲われて、信じられないほどの強い衝動で痛みを無視して泳ぎだした。こんなに痛みに強いとは!と思ったのと、ある意味少し麻酔がかかっているみたいで、自分の身に起きていることなのに傍観するような不思議な感覚になったのを覚えている。そうして暴れるようにして息をつないで数メートルを泳ぎ、その動きで夫に発見され、救助された。
あの孤独感は、生き延びたという安堵の中にあっても忘れられなかった。

わたしはそのあと、イタリアで唾液腺腫瘍の摘出手術を受けた。
そのときにも、確率は低いとはいえ、麻酔から目覚めない可能性もあるにはあるのだと知ったときに、チラッと同じ感覚になった。そか・・目覚めなかったらどうしたらいいんだろ??ってそんなこと言ってもなァ、これは誰とも共有できないことなんだよな・・そりゃそうだウン・・わたしひとりのことだ・・と思った。

海で溺れかけたときに感じて以来、幾度かそれを思い出すことがあり、今度は忘れなくなった。それからわたしは、純粋な孤独感というのは、普段わたしたちが「寂しさ」と混同して感じている感覚とはちょっと違うものなのだと思うようになった。

寂しいな、なんでわかってくれないんだろ。なんでかまってくれないんだろ、どうしてこっちを見てくれないんだろ、わたしってひとりぼっちなんだな・・・という感覚というのは、物足りなくて、心細くて、悔しさだったり悲しみだったり憤りだったりの感情だと思うのだけれど、それは「こうして一緒の世界にいるのに」という前提あってのものだと思う。

でもあのときにわたしが感じたことというのは、夢の中にいるままで「あ、これ夢だ!みんなと遊んでるけど、自分は部屋にいて寝てるわ!」と思い出したような感じ、だった。「一緒の世界にいない」ということがショックだった。

死んだわけではないから臨死体験でもなんでもないのだけれど、ちょっと特別な体験だったと思う。

わたしは今もそれを覚えているまま生活しているのだけれど、でもこれが自分の生きる感覚に孤独感をもたらすかと思いきや、反対に自分や他者への慈しみになってくれているのだ。

ウチら、みんなそれぞれがひとりなんだね、みんながそうなんだ・・・と思うと、なにかがこみ上げる。「ちくしょう、みんなひとりかい!!涙」みたいな、「ははは、俺たち全員、孤独っ子!!もうなんでもええわ!!」みたいな・・「みんな、大丈夫か?幸ありますよう・・」みたいな・・

慈悲と言ったらキレイだけれど、「みんな・・・!生きること、ご苦労さまです・・!!涙(大粒)」という気持ちでいっぱいになる。ポテポテ歩いているあのサングラスのオバチャンも、、そこに目を合わせるのが苦痛なほどのイケメンイタリアンメンズも、あの人この人大臣だって・・・(古)みんな、それぞれの宇宙にひとりで生きているのだ・・・

だからこそなのかな、なんだか知らんけどどこかに、なにかに、猛烈な「ごめんね」が湧いてくる。わたしたちみんなよ、孤独でごめんね。孤独にしてごめんね。でも孤独だからほんとうに自由だね。互いに別世界にいると知っていようね。なにかがバッサリと落ちるね。なんかキッツイくらい自由だね。だから支え合おう・・・・・

そうしてひとりひとりの役割に敬意を抱いたときに、わたしはまた気がついた。別々の役割で、みんなでひとつの世界を創っていること。
その役割がまったく重ならないのは、わたしたちがもともとひとつだからだ。きっかり分担制なのだ。だから、誰にも重要度の差なんてないのだと感じる。

あなたが孤独の中にあることは、弱さなどではなくて自然に備わったものだ。少しも悪くもなければ間違ってもいないとわたしは思う。
その孤独を「どーにかしなきゃ」と思わなくていいと思う。むしろそれは排除しようとせず、とても大切にしてよいのではないかな。大丈夫さ、みんなナチュラルに孤独さっ!

互いにその虚無を抱えて、それを自他を思いやる無尽蔵の根拠にして、一緒に生きているこの世界の幻想をめいっぱい楽しもう。人間やるのって、なかなかに大変だあね!

というわけで今日は、死の可能性を考えたときに思い出した『孤独感』と、そこから湧く思いについてのシェアでありました。
ありがとう。それではまた、明日ねー!!

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